TRENDIA CLASSIC

失楽

與謝野寛

1 / 1

わが上に一切の事物を示す「失楽」よ、

過ぎゆく日の最後なる今日の「失楽」よ、

わが身の上の「失楽」よ、我は汝に叫ぶ、

「全く空し」と。

我は幽欝なる汝の栖所に圧込められ、

我は其処に、粛索と飢渇との苦を続く。

何物も好からず、何物も最後まで期待せし所に値せず。

かくて、我は、今、汝の抱緊の下に死なんとす、

悔も無く、望も無く、怖るる所も無く。

無し、無し、一の叫びも無し、一の戦慄も無し。

最後の頼みとせしわが「愛」さへ喘げる負傷者なり。

他の、最後のわが神は青白き其額を包む、

そは「夜」なり、陰森として眠を誘ふ「夜」なり。

かくて、我は夢に落ちゆく。「生」とは何たるみすぼらしき語ぞ。

寥廓の不動なる路彼れを塞ぎ、

暗き地牢の底に其力を涸しながら、

昏睡せる人の無感覚こそやがて其「生」なれ。

ああ、自信と、期待と、愛とは、

轢りつつ、幸福を砕き去る荒砥ならず。

生くる欲、物の欲、恐怖、

少くも、気永に地を貪り食ふ植物の如き、

勇猛に竪実なる生活。

然れども、無し、無し、「虚無」が其欝憂をさまよはす、

荒廃したる大歩廊の外、何物も無し。

かくて此失楽の中に猶蠕動く……大馬鹿者よ。

貴なる女君よ、なつかしき身振もて、

開けたまへ、いとも輝かしき台の新しき帷を。

そは、かずかずの薔薇の打顫ふいみじき花の姿を

いと疾く我等に観せしめ給ふため。

また許したまへ、此処にあるそこばくの歌を、

節会の日に喜び狂ふ学生等の如く、

君があたりに捧ぐることを。

さて、如何に、気上りたる動音の

君が秀れし詩才を称ふることよ。

君は常にときめく韻をもて歎きながら

わななく熱き胸を語り給ふとこそ覚ゆれ

さて、また、楯形の菫の花なる君が目は

常に涙さしぐみつついますならめ。

来りぬ、わがかひなの中に。さて共に身を忘れぬ。

開けかし、美くしき歯に満ちし君が口を。

わが舌は穿ち入る。

さながら君が心を舐るここちに。

與謝野寛の他の作品