TRENDIA CLASSIC

私の竜之助感

澤田正二郎

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戀は盲目だとか、昔からの諺である。相手が惚れた男なら、あばたもえくぼに見えるように、所詮、戀人は批評の外の存在である。私の「大菩薩峠」に對する氣持も、正直に言えばその通りで、全く批評を超えたものである。

がしかし、私がかほど戀する「机龍之助」とは、原作者がいうところの机龍之助とは違うかも知れない。

或は小説が「大菩薩峠」の作者には思いも及ばない龍之助であるかも知れない。何となれば、私の謂う「机龍之助」とは、曾つて私が舞臺上に創作した机龍之助であるから。もつと詳しく云えば、その龍之助は、小説畑に生えた「大菩薩峠」の種子を、別に、全然地味に、異つた演劇畑に播いて育てた別の龍之助である。(これは如何なる小説の劇化にも已むを得ない當然の結果である)――しかもこれを栽培した私は、全然私自身の遵奉する私の演劇主義によつてその枝ぶりを作り、その葉を刈つたことは、これもまた已むを得ぬ演劇藝術の必然といわねばなるまい。要するに同じ松でもその松は別個の松である。同じ「大菩薩峠」の机龍之助でも、これは私の演劇術によつて創作された別の机龍之助である。言わば私は、松の木の有するあるよさを選んだのである。

そして別に畑の異う舞臺の上の松を創造したのである。自然そこには私獨自なるものがある。從つて、私の謂う「机龍之助」は、原作者が恐れる訪問作者の筆や、映畫の上に剽盜さることを憂うることは少しもないものである。

例えば何人が眞似ようと、何人が改作しようと、嚴として獨自の存在性を持して保ち得る私の藝「机龍之助」なのである。