博士フアウストは、哲学、医学、法律、神学その他あらゆる学問といふ学問を研究し尽してしまつて、もうその他には何もないのか? とおもふと、急にがつかりして、死んでしまはうと決心しました。ところへメフイストといふ悪魔が現れて、女道楽をすゝめます。なるほどそいつは気がつかなかつた! と博士は死ぬのを見合せて町へ出ると、一人の娘を見るがいなや即座に魂を奪はれました。マルガレツテといふ帽子店の売子で十七歳の娘です。恰度娘は教会から出て来るところで、あのやうな美しい娘に僧侶は何を悔ひ改めさせたのか? と博士は訝ります。
美しい首飾、耳環、腕輪――やはり娘を誘惑するには、これ以外のものはなからうといふメフイストのはからひで、二人は大急ぎでそれらのものを整へると、メフイストがそつと娘の部屋へ忍び込んで、娘の鏡台の傍らに宝石の箱を置いて来ます。やがて娘は外から戻つて来て、不思議な箱に気づくと恐ろしさうに戦いてゐましたが見れば見る程立派やかな宝石類に誘惑を覚えはじめます。
「せめてこの耳環だけでも妾のものだつたら妾は何んなに幸せだらう。若くて美しいだけでは悲しいのよ。美しいといふことは幸せでも、身装が見すぼらしかつたら台なしだわ、可愛いの何のと讚める人があつたつて、それは半分憐れみの言葉ぢやないか、何から何まで世間はお金、ほんとうに貧乏ぢや仕方がないな……」
マルガレツテは沁々と斯んなことを呟き、そつと首飾を執りあげると、胸におしあてゝ羨ましさうに鏡の中を覗きました。メフイストはこの様子を眺めて、しめたぞ……と点頭きます。可憐な娘が、先づもつて悪魔の誘ひに陥らうとする発端です。
娘の気分がもう少し浮つくのを待つて甘い囁きをおくらうと尚もメフイストが物蔭で息を殺してゐると、隣家の未亡人が一人の僧侶を伴ふて娘の部屋に這入つて来ます。そして、宝石の箱を見ると仰天して、これは屹度神様がお前の罪を試さうと思召しておつかはせになつたものに違ひないから、早速神様の御許へお返し申してお祈りしなければならないと僧侶と共々に促します。