TRENDIA CLASSIC

茜蜻蛉

牧野信一

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白いらつぱ草の花が、涌水の傍らに、薄闇に浮んで居り、水の音が静かであつた。咲いてゐるなとわたしはおもつた。トラムペツト・フラワ? いや、あれは凌霄花の意味だつたが、凌霄花もラツパ草も、うちでは昔から何処に移つても咲いてゐるが、誰もあの花が好きと云つたものも聞かぬのに――わたしは意味もなくそんなことをつぶやいた。泉水には水葵が一杯蔓つて、水溜りの在所も見定め難かつた。ラヂオが歌舞伎劇を放送してゐた。わたしは、紙屑のやうな心地であるだけだつた。吾ながら薄ぼんやりとした姿でわたしは、どこからともなく母の家へ戻つた。母も訊ねもせず、わたしも云はうともしなかつたので、まつたくわたしは何処から戻つて来たのか、きのふまでのことも、もう夢のやうであり、何処を何うしてゐたのか自分ながら支離滅裂であつた。――ただ母とわたしは何の変哲もなく、懐しみに富んだわらひを浮べただけだつた。余程わたしは疲れてゐたと見えて、無性に母の家のあかりが甘く、故郷の空気を貪るおもひであつた。母と子の情感を、不思議に沁々と感じた。

「ああ、けふは珍らしく腹が減つた。」

わたしは水葵をわけて手を洗ひながら、厭に太い声だつた。母はラヂオのスヰツチを切つて、縁側の籐椅子に凭りながら、

「わたしたちは今済んだところなんだよ。ビールなら冷えてゐるけど、何う?」

と云つた。随分久しく会はなかつたが、挨拶はそれだけだつた。わたしは座敷へあがると同時に、いつか泥酔の挙句唐紙などを蹴破つたり、手あたり次第のものを売り飛したりしたのが、非常に恥しかつたので、おそるおそる見廻したところ綺麗に痕かたもなく片づいてゐるので吻つとした。

折角今、仕舞つたばかりのところを、お気の毒だがね。マツや、もう一度お膳の支度を頼むよ――と母は女中に註文して、不図気づいて、

「マツや、これがうちの長男ですよ。」

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