TRENDIA CLASSIC
早春のひところ
牧野信一
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一
そのころ私は、文科の学生でありましたが、小説といふものにいさゝかの興味もなく――といふよりも小説の類ひを読んだことがなかつたので――主に西洋の哲学や科学の書に親しみ、興味と云へば星の観測ぐらゐのものでした。ほとんど友達といふものもなく、大概自分の部屋に引込んで、何かこつこつと机の上で辞書を引いたり、書抜をこゝろみたりしながら漫然と孤独の時間を過して居るといふ風でした。――夜になると芝居のはやしの音が、かなりはつきりと響いて来るやうな街なかの医院の二階でした。はやしの音は明治座の芝居からです。その小屋が久松町の川ふちにあつたころで、私は叔母の縁家先だつたその家に寄宿して毎日規則正しく学校(早稲田)へ通つてゐました。しかし私は波多野博士の哲学史の時間の他は図書館に居ることの方が多かつたのです。
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