たとへこの身は千里の山河を隔てようとも魂は離れはせぬぞよ。マーガレットの唇が神体に触れても嫉ましいのぢやないわい。――フアウスト
一
けふこの頃、うらゝかな小春の日和が日毎日毎さんさんと打ちつゞいてゐる。三田の寺町にある私の寓居は、崖ふちに添ふて立ちならぶ長屋の端で家構への貧弱さは随一であるが、展望の拡さだけが悲しみに満ちた私の胸を慰めてゐた。しかし私は、まさか斯んな位置の窓から遠くの山の姿などが眺められるとは夢にも期待してゐなかつたのだが、或日、不図、二階の窓から、うらうらと晴れわたつてゐる遥か西北方の空を望むと、はからずも白々しい空の裾に雲の峰かと見紛ふばかりの丹沢の山脈がゑんゑんと背をうねらせてゐる有様を見出して、思はず驚きの声をあげたのであつた。
それからといふもの私は、終日縁端の籐椅子に蹲つて、それらの山々の、はるかの峰つゞきの麓にある、とある寒村に住み慣れて、いとも不思議な生活を送つてゐたつい此間までの日々のことを、あれこれと手にとるやうに思ひ出すのであつた。
「たゞ、山を眺めてゐるのだ――聯想の伴ふのは寧ろ閉口なんだが、他に眺める山も見あたらぬのでね。」
私は他人の前では左んなに無心さうに云ふのであつたが、無心に山などを眺めるやうな余猶などは無かつたのだ。私は、あの山の麓のメイ子の上ばかりに恋々としてゐるのだ。
「やあ、ほんとうに見えるな、僕はおそらく、あなたの感傷の夢だらうとばかり思つてゐたんだが……」
僕はこの頃机に頬杖を突いて山ばかりを眺めてゐるよ――そんな風な可成り長い手紙を私は若い友達の鶴巻と銀原へ書いたのであつたが、二人は伴れだつて遊びに来ると、何やら気の毒さうに云ひ合ふのだつた。
鶴巻から望遠鏡を奪ひとつて、銀原も苦笑をおしかくすかのやうであつた。
「なるほど見えるな。是非とも、もう一辺あの村へ逆襲して……」
恰度、あの頃から彼等二人は奇妙な癖が生じて、冗談につけ真面目につけ、稍ともすれば、どぎつい調子の声色で芝居の科白をつかつて言葉を交へるのが常習であるかの如きであつた。――「ひと花、咲かせてやりたいものだがな……」