タンタレスの春
本文約8,200字 ・ 読了時間 約17分
あらすじ(AIが作成しました)
横浜の貿易商の娘ナンシーと、彼女の日本語の家庭教師を務める二十四歳の青年が、土曜から日曜にかけて過ごす日々を描く。青年はナンシーに淡い恋心を抱き、彼女の無邪気な言動に翻弄されながらも、届かぬ思いを募らせる。本作は、青春期特有の切ない葛藤や憧憬を、目の前の甘美な対象を手に取れない苦しみに例え、その報われぬ恋心の機微を綴る。
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一
その頃ナンシーは、土曜から日曜にかけて毎週きまつて私を横浜から訪れて、私に従つて日本語を習ふのだと称してゐた。彼女と私の父親同志がボストンの大学でクラス・メートであつた。ナンシーの父親は山下町にオフイスをもつて、小規模の貿易商を経営してゐた。彼女は其処で、タイピストとして働き、ブリウ・リボンという綽名を持つてゐた。彼女はいつも空色系統のドレスを好み、スレンダーな容姿が何といふこともなく瀟洒で、微風の翻へる一片のリボンのやうな感じを与へるといふ評判から、そんな羨むべき綽名を近隣の男友達から与へられたらしかつた。自分でもそれを悦んでゐるらしく、やがて私に寄す手紙にもB・Rと署名したりした。手紙といふのは、若しも土曜日に他の約束が出来て熱海にゐる私を訪れ難い折に、簡単な断り状に過ぎなかつた。――いつの間にか私は、土曜日の午頃までに、彼女の手紙が来ない――と決るまでは何か苛々として落着きを逸した憂鬱な青年と化してゐる自分に、気がつきはじめてゐた。そして私は、ひとりであかくなつた。郵便! といふ声を、それまでは何んなに慕はしく待ち焦れ、どんな類ひの手紙でも四五回は繰り返して読むのをわずかな楽しみにしてゐた、そのくせ孤独好きな私が、ちかごろは郵便夫が自分のうちの門を素通りするのを見とゞけた時に、吻つと胸を撫でおろすといふほどの変り方であつた。
私は、彼女が私に寄せてゐる凡ての好意をひそかに最も微細に分析しても、決して、たゞ彼女としては呑気なお友達として私を遇してゐる以外の何ものをも見出すことの出来ないのが、可成りの痛手であり、途方もない自分の感情に赤面するばかりであつた。
汽車が未だ止まるか止まらないうちに、いつも彼女は一番先きに改札口を飛び出し、薄ぼんやりと出迎へに現れてゐる私を見出すやいなや、いきなり私の腕の中にころげ込んで、熱い頬を寄せた。
「どのくらゐ待つたの?」
と彼女は先づ訊ねるのが習慣だつた。そして私が、たつた今来たばかりだ――と答へると、彼女は、
「ありがたう……」