TRENDIA CLASSIC

円卓子での話

牧野信一

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彼の昨日の今日である、樽野の――。

今朝はまた昨日にも増した麗かな日和で、長閑で、あんなに遥かの沖合を走つてゐる漁船の快い発動機の音までが斯んなに円かに手にとるかのやうに聞えるほどの、明るい凪は珍らしい。だから云ふまでもなく、海原は青鏡で、ただ、波を蹴たてて滑つて行く舟の舳先で砕ける飛沫が鮮やかに白く光るより他に目を射るものもないのだ。――樽野は、醒めきらない微かな眠さが反つて快かつた。

心忙しい筈の樽野は、眠気を醒すつもりであるかのやうに大股で道を急いでゐるのだつたが、もう少し歩を速めるか(それはもう駈足になる。)伴れを探して、酒にでも酔つた時のやうな饒舌家にでもならないと、何か斯う目に見えぬものに対して気まりが悪過ぎるとでもいふ風な心地だつた。

樽野は晴れた日だけを朝起きして、半年前までは皆で住んでゐたのだが今は彼の書斎だけが残つてゐるN村の家へ出かけるのだつた。――競売にされるといふ話を聞いて、吃驚りして逃げ出したのだつたが、また当分はそんな話も有耶無耶になつたと見へて、其処の門柱には彼の知らぬ間に、彼の名前の誌された新しい表札が出てゐた。現在住んでゐる町はづれの傾きかかつて彼方此方に支柱がかつてある家には、樽野の部屋がなかつたし、加けに、いろいろな悲しい事情を持つて東京からその身を寄せて来た妻の兄妹達が居た。悲しい、困つた境遇に追ひつめられた彼等であるから樽野は屹度、溜息でもつきながら静かに引き籠つてでもゐることだらう、可哀想なことだが――と思つたのだつたが、好いあんばいに彼等の元気好さと云つたらない、決して事に屈托を持たぬ朗らかな楽天家ぞろひだつた。

彼の妻は彼等のことを、少々体が弱いので転地傍々の保養に来てゐるのだ、と吹聴してゐるが、おそらく誰の目にも彼等が病弱な身であるとは映るまい。此頃、もう余程前から樽野家の酒樽は空になつたまゝで、酒を口にしない主は、自分ながら不気味な程悪おとなしくて彼こそ体でも悪くて引き籠つてゐる者のやうでさへあつた。何んなに家の中が騒々しくても決してその騒音の中に樽野の声が混ることはなかつた。

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