蝉
本文約16,600字 ・ 読了時間 約34分
あらすじ(AIが作成しました)
東京の間借りで夜ごと騒ぐ夫・滝野の素行に悩む妻・周子は、隣人への配慮から酒を控え、何か纏まった芸を習うよう促す。自身の生活に楔を打つ必要性を感じた滝野は、かつて得意とした軍隊ラッパの演奏を再び志すようになる。田舎への郷愁と周囲との軋轢の狭間で葛藤する滝野の姿と、夫を郊外へ移住させようと家探しに奔走する周子の日常を対照的に描く。
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「あたしは酔ツぱらひには慣れてゐるから夜がどんなに遅くならうと、どんなにあなたが騒がうと今更何とも思はないが――」
周子は、そんな前置きをした後に夫の滝野に詰つた。
田舎で暮してゐた時とは、境遇も違ふし場所柄も違ふ、今ではこのセヽこましい東京の街中で、然も間借りをしてゐる境涯である、壁一重先きには他人が住んでゐるのだ、毎晩/\夜中も関はず大声を発して、加けにどたばたとあばれられたりしては、朝になつて隣りの人に挨拶をすることも出来やしない、まるで狂ひの沙汰だ……。
「それが、たゞの喧ましさとは違ふぢやありませんか、歌をうたふならせめて他人に聞かれても恥しくないやうな歌をうたひなさい。あなたゞつてもう学生ではないぢやありませんか、隣りのマンドリンが煩いなんてよくも図々しく云へたものだ、何処にお酒を飲みに行つたつて屹度鼻つまみに違ひない、几帳面の唄となつたら春雨ひとつ知らないでせう。」
周子は、あゝと深い溜息をついた。
滝野は、身動きもせず凝つと煙草を喫してゐるばかしだつた。そして小声で、
「ゆうべも酷かつたかね。」と訊ねた。
「ほんとうにあなた、何かお習ひなさいよ、ちやんと纏つた芸を――」
「何が好いだらう、長唄でも……」
「声が悪いから、それもね……」さう云つて周子は、苦笑を浮べた。
「ゆうべはどんなに騒いだ。」
独りだつたから大して酔つたわけでもなく大体覚えてゐたが、馬鹿/\しくて知つてる振りも出来なかつたので滝野は、狡くそんな退儀な質問を発した。――そして若し周子が、実際以上に少しでも誇張したら、軽蔑してやらうなどと思つたりした。
「いつもの通りよ。」周子は煩さゝうに云つたばかりだつた。
「いつもの通りとは、何ういふことだ、はつきり云つたら好いだらう。」
「都の西北――を何辺やつたことでせう。」
都の西北、といふのは滝野が四五年前、それも落第を重ねた後に漸く末席をもつて卒業した或る私立大学の校歌のことだつた。
「それから、野球の応援歌!」
「それをやつては恥かね。」