TRENDIA CLASSIC
雪の透く袖
鈴木鼓村
1 / 4
古びた手帳を繰ると、明治廿二年の秋、私は東北の或聯隊に軍曹をして奉職していたことがあった。丁度その年自分は教導団を卒業した、まだうら若い青年であった。
当時、その聯隊の秋季機動演習は、会津の若松の近傍で、師団演習を終えて、後、我聯隊はその地で同旅団の新発田の歩兵十六聯隊と分れて、若松から喜多方を経て、大塩峠を越え、磐梯山を後方にして、檜原の山宿に一泊し、終に岩代、羽前の境である檜原峠を越えて、かの最上川の上流の綱木に出で、そして米沢まで旅次行軍を続けたのであった。
時は十一月の中旬、東北地方は既に厳霜凄風に搏たれて、ただ見る万山の紅葉は宛らに錦繍を列るが如く、到処秋景惨憺として、蕭殺の気が四隣に充ちている候であった、殊にこの地は東北に師団を置きて以来、吾々が初めて通る難路のことであるから、一層に吾々の好奇心を喚起したのであった。第一、この会津地方には一般怪談の如きは乏しくない、殊に前年即ち明治廿一年七月十五日には、かの磐梯山が噴火して、為めに、そのすぐ下に横たわる猪苗代湖に注ぐ、長瀬川の上流を、熔岩を以て閉じた為めに、ここに秋元湖檜原湖と称する、数里にわたる新らしい湖を谿谷の間に現出した、その一年後のことであるから、吾々の眼にふるる処、何れも当時の惨状を想像されない処はなかった、且つその山麓の諸温泉には、例の雪女郎の談だの、同山の一部である猫魔山の古い伝説等は、吾々をして、一層凄い感を起さしたのである。
そして、この檜原の宿とても、土地の人から聞くと、つい昨年までは、その眼の前に見える湖の下にあったものが、当時、上から替地を、元の山宿であった絶項の峠の上に当る、この地に貰って、漸くに人々が立退いたとのことである。