TRENDIA CLASSIC

斎藤緑雨と内田不知菴

坪内逍遙

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緑雨が小説改良会設立案といふのを提げて、初めて私のとこへ来たのは明治十八年の秋頃であつたらうから、彼れとの交際は二葉亭とよりも古く、竹のや(饗庭篁村)とよりも少し早い。不知菴の来訪は、明確には記えてゐないが、二葉亭よりも晩かつたから、早くも明治廿年以後であつたらう。

二人とも、大久保へ移つてからは、多い時は月に四五度、少くも二回は欠かさない常得意で、来れば短くて小半日、長い時は日曜の午前に来て夕食間際までゐて帰つて行くのが例であつた。魯菴の其頃の話題は、主として西鶴の作の評、芭蕉論、内外の文学論、とりわけロシャ小説の礼讃、二葉亭の噂、紅、露の比較、硯友社のわる口、文壇一般のアラさがし、時としては二葉亭との談論の二番煎じかと思ふやうな社会政策の断片。後には座談の名人とも言はれた彼れ、其時分から一かどのーチュアソーで、博覧強記で、蘊蓄は和漢の雑学が六七分、西洋のそれが三四分といふところ。話題の大部分は文壇人の悪口であつたとはいふものゝ、さすがに批評家を本領とする彼れのそれは漫罵ではなかつた。それに、態度がいつも沈著で、読んで字の如き白眼を近眼鏡の下に光らせて、能弁に併し極低調に語る口吻が冷静であつたので、聴いてゐて焦々するやうなことはなかつた。しかし其妙に冷かな、始終対手の弱点か欠点かを見透かさうとしてゐるかのやうな近眼鏡底の白睛は、誰れにも余り好かれなかつたらしい。硯友社の或猛者の如きは「今に見ろ、暗の夜の横町でゝも出ツくはしやア、目に合せてくれる」と豪語してゐたといふ噂があつた。

晩年には、頭も滑ツこく禿げ、口前も如才なくなり、目にも愛嬌が出来、福徳円満の好々爺とも見られたが、明治卅何年ごろまでは、其筆に現れてゐた通りの皮肉味が彼れの眉間に漂つてゐた。で、彼れに嘲罵されて憤懣してゐた硯友社其他の作家連が、彼れと相知るに及んで、ます/\彼れを毛虫扱ひにして、其訪問を忌避したのも一理ある。

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