TRENDIA CLASSIC

涸沢の岩小屋のある夜のこと

大島亮吉

1 / 10

自分たちの仲間では、この涸沢の岩小屋が大好きだった。こんなに高くて気持のいい場所は、あんまりほかにはないようだ。大きな上の平らな岩の下を少しばかり掘って、前に岩っかけを積み重ねて囲んだだけの岩穴で、それには少しもわざわざやったという細工の痕がないのがなにより自然で、岩小屋の名前とあっていて気持がいい。そのぐるりは、まあ日本ではいちばんすごく、そしていい岩山だし、高さも二千五百米突以上はある。これほど高くて、自由で、感じのいい泊り場所はめったにない。人臭くないのがなによりだ。穴のなかに敷いてある偃松の枯葉の上に横になって岩の庇の間から前穂高の頂や屏風岩のグラートとカールの大きな雪面とを眺めることが出来る。そのかわりいつもしゃがんでいるか、横になっていなければならないほどに内部は低い。景色と言っては、なにしろカールの底だけに、ぐるりの岩山の頂上と、カールの岩壁と、それに前に涸沢の谷の落ちてゆくのが見えるだけで、梓川の谷も見えない。そしてそれにここにはあんまりくるものもいない。実にしずかだ。そこがいいんだ。そこが好きなんだ。米味噌そのほか甘いものとか、飲物のすこしも背負い込んで、ここへやって来て四、五日お釜を据えると、まったくのびのびして、はじめて山のにおいのするとこへ、きたような気がする。