黒馬旅館の客
影のような男
怪物!
そうだ、怪物にちがいない。
怪物でなくて、なんだろう? 科学が発達した、いまの世の中に、東洋の忍術使いじゃあるまいし、姿がみえない人間がいるなんて、これは、たしかに変だ。奇怪だ!
しかし、それは、ほんとうの話だった。怪物ははじめに、ものさびしい田舎にあらわれた。それからまもなく、あちこちの町にも出没するようになったのである。たいへんな騒ぎになったことは、いうまでもない。
その怪物の姿は、まるっきり見えないのである。すきとおっていて、ガラス、いや空気のように透明なのだ。諸君は、そんなことがあるもんか――と、いうだろう。だが、待ちたまえ!
怪物が、はじめて田舎のその村にやってきたのは、たしか二月もおわりに近い、ある寒い朝のことだった。身をきるような風がふいて、朝から粉雪がちらちら舞っていた。こんな寒い日は、土地のものだって外を出あるいたりはしない。
その男は、丘をこえて、ブランブルハースト駅から歩いてきたとみえ、あつい手袋をはめた手に、黒いちいさな皮かばんをさげていた。からだじゅうを、オーバーとえりまきでしっかり包んで、ぼうしのつばをぐっとまぶかにおろし、空気にふれているところといったら、寒さで赤くなっている鼻さきだけであった。なんともいいようのない、ぞっとするようなふんいきを、あたりにただよわせながら、黒馬旅館のドアをおしひらいてはいってきたのである。
「こう寒くちゃあやりきれない。火だ! さっそくへやに、火をおこしてもらいたいな」
酒場へ、ずかずかとはいってくるなり、ぶるるんと、からだをゆさぶって雪をはらいおとし、黒馬旅館の女あるじに向かって、そう言った。
いまどき、めずらしい客である。こんな冬の季節に、しかもこんなへんぴな土地に、旅の商人だってめったにきたことはないのだ。おかみさんは、びっくりもし、なげだされた二枚の金貨をみると、すっかりよろこんでしまった。
「とうぶん、とめてもらうから」
客をへやに案内すると、暖炉に火をもやしてたきぎをくべ、台所でお手伝いにてつだわせて、おかみさんはせっせと食事のしたくをした。