一
黄昏時がもう近くなった。マリイはろは台に腰を掛てから彼此半時ばかりになる。最初の内は本を読んでいたが、しまいにはフェリックスの来るはずの方角に向いて、並木の外れを見ていたのである。それが今立ち上がった。こんなに長く待たせられた事はない、陽気が少し冷たくなった。そのくせ空気にはまだなんとなく五月の末の和かみがある。
アウガルテンの公園には、もうたんと人がいない。散歩をしている群は、今少しで締められるはずの門の方へ足を向けている。マリイが出口の近所まで来た時、やっとフェリックスが見えた。約束の時間より後れたくせに男はゆっくり歩いている。女と目と目を見合せてから、少しばかり足を早めたばかりである。女は立ち留まって、男の来るのを待っていた。女の不性気に差し伸べた手を男は微笑みながら握った。
「まあ、あなたこんなに遅くなるまでお為事をなさらなくてはならないの。」こう云った女の声は穏かな不平の調子であった。男は女の手先を右の肘に掛けさせて歩き出したが別に返事はしなかった。
女が「どうなすったの」と問い返した時、男はやっと返事をした。「そうだよ。それに己は忘れて時計を見ないでいた。」
女は横から男の顔を覗き込んだ。どうもいつもより顔の色が蒼いようである。そう思ったので、女は優しい声をして云った。
「どうでしょう。あなたも少しわたくしに構って下さるようになすった方が好くはないでしょうか。お為事なんぞは、少しの間廃しておしまいになってね。御一しょに散歩でもしようじゃございませんか。ねえ。内から御一しょに出る事にして。」
「そうさなあ。」
「わたくしこれからあなたを手放さないようにしようかと思いますの。」
男はびっくりした様子で、急に女の顔を見た。
「どうなすったの」と女は問うた。
「なんでもないよ。」
二人は公園の出口に来た。日の暮方の町の賑いが、晴れやかに二人の周囲を取り巻いた。市中一般に、春の齎した喜びが拡っていて、それが無意識に人々に感ぜられると見える。
「今から一しょに行くと丁度好い処があるが、知っているか。」
「どこでしょう。」
「プラアテルへ行くのだよ。」