TRENDIA CLASSIC

桜もち

心猿

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一友に誘はれて久しぶりに向島を散歩したのは、まだ花には少しはやい三月なかばのことであつた。震災と戰災で昔の面影をきれいに失つたが、それでもわれわれ明治の子にとつて、墨東は忘れがたい地である。あの道この横丁には、まだまだ幼時の記憶をよびさますものが少くない。

枕橋畔の料亭八百善、牛島神社の舊社地、弘福寺裏の富田木歩の家、淡島寒月の梵雲庵、饗庭篁村の家、幸田露伴の蝸牛庵、百花園の御成屋敷。 それらは地上から永遠に消え去つたが、竹屋の渡しのあたりの常夜燈や夥しい社寺の碑碣など、いまだにもとの場所に殘存してゐる。苞に入つた入金の業平蜆はとうになくなつたが、まだ言問團子や、長命寺の櫻もち、地藏坂の草だんごは、それぞれ名代の看板を掲げてゐる。姿かたちは變つても、それらの文字を眼にすれば自づと、大正初期の墨堤を瞼に描くこともできるのである。

私の向島の思ひ出は、長命寺内芭蕉堂の懷石料理にはじまる。その日、小學一年生の私は父に伴はれて茶事に列したのである。もちろん招かれざる客であつた。會者七八人、日頃の惡童には、まことに退屈きはまる數時間であつた。主人は宗偏流家元の堂主中村宗知翁、すでに八十歳をすぎてをられたが、なほ钁鑠たるものがあつたと、子供ごころにも覺えてゐる。

翁は累世田安藩の臣、大坪流直傳の騎射指南役として重きをなした。維新後は同藩の親友清水蟠山の推擧で新政府に出仕したが、まもなく致仕して言問團子の植佐の離れに退隱した。これは「言問團子」の命名が先考花城翁による縁故からで、のち長命寺内に芭蕉舊跡の一宇を再興、そこに自ら移り住んだのである。

清水幡山は兵法家として有名な清水赤城の孫である。赤城には四男一女があり、長男は礫州、次男が一方、三男が大橋訥菴である。清水基吉氏の文によれば

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