クロイツェル・ソナタ
本文約3,300字 ・ 読了時間 約7分
あらすじ(AIが作成しました)
嫉妬に苦しむ男の告白を軸に、結婚問題や性欲の是非を鋭く批判した長編小説。本作は、作者が到達した芸術に対する独自の教化的意義や、人間社会の悪に対する論評を前面に押し出す。作中では性愛を自己完成の強敵とみなし、肉欲の滅却を説く過激な思想が展開される。妻を殺害した男の異常な神経という背景設定により、物語は高い緊張感と真実性を持ち、発表当時には社会を揺るがすほどの衝撃と大きな反響を巻き起こした。
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いわゆる『回転期』以後、世界的文豪としての輝かしい名声を敝履の如く棄て、神への奉仕の生活を声明して、宗教的述作へ専心しはじめたトルストイは、一八八六年はじめて『イン・イリッチの死』を公けにして、彼の芸術を惜しむ人々に旱天の慈雨のような喜びを与えたが、それから四年を経た一八九〇年に、さらに彫心鏤骨[#ルビの「ちょうしんるごつ」はママ]の苦心の余になる力作を発表して世を驚かした。それがすなわちこの『クロイツェル・ソナタ』“Kreitserova Sonata”である。本篇の創作にヒントを与えたのは、一八八七年の夏、ヤースナヤ・ポリャーナに文豪を訪問した一俳優の談話で、あるとき汽車の中で、無名の紳士が妻の不貞に苦しんでいる告白談を聞かされたという彼の物語が、何ものをもってしても消す由もない天才の芸術的感興をそそったものである。トルストイはその秋ただちにこの物語の筆を染め、爾来四年間に、幾度となく改竄推敲を重ねた後、ようやく本篇の発表機関となった『ユリエフ記念文集』の編纂者の手に渡されたのであった。
前にも述べた如く、『クロイツェル・ソナタ』の創作動機は、トルストイ生来の芸術欲に基づくものであることはいうまでもないけれど、しかし芸術に対する見解を一変した時代の作品であるから、約十年前に書かれた『アンナ・カレーニナ』などと比較してみると、創作の根本態度に著しい相違が認められる。以前、驚くばかり瑰麗な花となって開いた純な人生の芸術的観照と再現は、少くとも表面上影を潜めて、ここには芸術的形式をかりた教化的意義が前面に押し出され、破邪顕正の思想が第一目的として主要な位置を占め、書物は大半、人間社会の悪と虚偽に対する論評で充たされている。