余話(秘められた箱)
本文約1,900字 ・ 読了時間 約4分
あらすじ(AIが作成しました)
厳格な母から論語や歴史の講義を受ける少年は、夜毎に母が鍵のかかる書箱から取り出し、涙や微笑を浮かべて読み耽る未知の書物に対し、強い好奇心を抱く。母の留守中、盗み出した鍵でその禁断の箱を開けた少年は、そこに整然と並ぶ雑誌や泉鏡花らの作品群と邂逅する。母が秘かに愛読していた書物との遭遇を経て、文学という未知の世界へ触れた少年の記憶を、懐旧の情を交えて綴る随筆である。
💰 この本を応援する(投げ銭)
厳格らしい母だつた。
幼時余は、母に、論語を学び、二宮尊徳の修身を聴講し、ナシヨナル・りいどる巻の一に依つて英語を手ほどかれ、和訳すゐんとん万国史を講義された。それらの記憶は、酷く曖昧である。論語では、母のそれでは、友アリ遠方ヨリ来ル云々に就いての解釈を朧気に憶えてゐる。ナシヨナル・りいどるでは、母がそれを購ふ時「なしよなる・りいどるの巻の一……」と云つたので、何やら余は、ハツとしたことを憶へてゐる。「巻の一」といふ響きが、余の姓名のそれと通じた気で、妙なハニカミを感じて、それとなく母の袂を握つたことを憶えてゐる。すゐんとん万国史は、余が稍長じた頃だつたが、たゞその書物の装釘が、灰色に太き金文字を印したる表紙を憶えてゐるのみである。おそらくこれは明治初年版の書物に相違ない。
これに依つても、当時余が、いかに不熱心な母の弟子であつたか、といふことが察せられてならない。当年、海外にあつた余の父から月々送らるゝ様々な玩具、衣類、絵本の類などが今もなほ余の記憶に新しく甦るにも係はらず、如何なれば母の教訓のみが、斯くも朧気に記憶の向方に薄れてゐるか――と、思ふと、われながら不孝の悪徳を愧ぢずには居られない。
「芝居」の類は、観ることなく、余は中学校を終へた。「小説」の存在を知らずに生長してしまつた。