本文へ移動
TORENDIA

嘆きの谷で拾つた懐疑の花びら

本文約2,300字 ・ 読了時間 約5分

あらすじ(AIが作成しました)

霧深い早朝、墓地に隣る生垣で書きかけの原稿を焼く「私」は、尊敬する美しいRさんと遭遇する。九官鳥に似た声でRさんが手帳を朗読し、哲学の歴史や演繹法と帰納法を巡る議論が交わされるなか、日記を時日と逆行して記そうとする「私」の混乱と、Rさんとの朝の散歩の記憶が入り混じる。哲学的な思索や文学的引用を織り交ぜながら、真理の探求と人間存在の葛藤を独白体で描く。

牧野信一

速度
🎧 嘆きの谷で拾つた懐疑の花びら / 朗読音声: VOICEVOX:玄野武宏

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 3

日記といふものを、逆に時日を遡つて誌さうとしたら、映画のヒルムを逆に回転するやうな混乱に陥るだらうか――今朝、こんなことを考へながら、墓地に隣る生垣の傍らで書きかけの原稿を焼いてゐた。霧が深かつた。ちよつとは思ひ出せない程幾晩も徹夜を続けた後の混乱の頭が司る覇気だ。断じて披瀝を怕れる自尊心ではない。悪の面をかむつた悲惨な姿が、虚空をつかんで後ろへ向つて駆けて行く。「喜劇は普通の人よりもより悪しき人々を模倣せるものなり、されどそれは凡ての悪に関してより更に極悪であるには非ずして単に一個の特殊な悪に関する謂なり、即ち単に笑ひに関するのみの謂にして笑ひは事実醜きものゝ一分派なり、笑ふべきものとは他人に何等の痛痒も害毒をも与へぬ底の過失或ひは醜さであるならん、例へば吾等の笑ひを誘ふ一個の仮面を想ひても見給へ、斯る仮面の形相は概ね醜く歪みたるものなれども、吾等にいさゝかの苦痛をも誘はぬは事実ならん。」私は有り難い古人のお経をそらんじて、立ち昇る煙りの中で忍術家のやうに瞑目をしてゐると不図、

「親愛なる友よ、御存じかね?」

と直ぐの眼の前で九官鳥のやうな声が響いたので驚いて、見ると、こんな早朝に、もう綺麗な身終ひをしたRさんが、私の脚元から拾ひあげた手帳を朗読したのだ。Rさんはクレテ島の沐浴婦に擬すべき美人で、かね/″\私は尊敬の念を抱いてゐたが、惜しみてもあまりあることには、その音声が九官に酷似して、私を悲しませた。

牧野信一の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本