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TORENDIA

浪曼的月評

本文約19,100字 ・ 読了時間 約39分

あらすじ(AIが作成しました)

牧野信一が雑誌に掲載された小説を批評する本作は、同時代の作家たちの作品を通じ、文学の面白さや小説という形式のあり方を論じる。特に室生犀星の『弄獅子』に深い感銘を受けた著者は、折檻という悲惨な日常の中にある哀切な情景を描いたその手腕を高く評価する。広津和郎や長田秀雄らの作品にも触れながら、作家としての心胆や修業の本質について自身の考えを綴り、改めて文芸が持つ夢と真実の境界を真摯に考察する。

牧野信一

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一

今月、雑誌を手にとるがいなや、自分が評家の立場であるなしにかゝはらず、待ちかまへて読んだものが、三つもあつたことは大変に愉快でした。それは、「早稲田文学」の、室生犀星作、弄獅子と、「中央公論」の、広津和郎作、一時代と、そして、「改造」の、眼中の人、小島政二郎作の三篇です。今月の、「早稲田文学」の論説壇で、二人の新進作家を語るといふ、中谷博の、冒頭を今不図見たのでありますが、斯様に述べられて居ります――小説は、およそ、面白いものでなければ困る。読者は、決して、作家の親戚でも親友でもない、どれほど面白くなくとも、義理から読んで呉れる筈のものなのではない、況んや文学青年あつかひして、甘く見くびつたりさるべきものではない。さればとて読者をば、選ばれたる人々とか常に時代の尖端を切つてゐる人々とかに解しても嘘にならう。要するに読者とは、平凡な社会人を以つて構成された読書生の一群と見るが穏当であらう――と。

さうです、いつも例へばわたし自身にしろ、面白さうなものばかりしか読みません。自分が作家生活をするようになつてからは、これではいけないと感じながらも、どんなに評判の好いものでも、つい無精になつて、十年、十五年と読み慣れてゐる作家のものより他には読みません。で、さういふ癖は改めるに如くはないと思ひましたので、むしろ読みたいものは後まはしにして、見学式な望遠鏡を執らなければ、この筆を執る意味もなくなると眼を据えて十日も前から凡てのものをぼつばつ読みはじめて、そのいちいちに就いては決して自分らしくかた寄らぬ感想を述べるつもりで居りますが、さういふ間にもやはりその三篇のことが眼の先におどつて、落つきません故、先に述べさせて貰ひます。どうぞ、わがまゝ勝手な評者と思はないで下さい。

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