TRENDIA CLASSIC

月評

牧野信一

1 / 7

読むのがのろいからと心配して――これで僕は四ヶ月もつゞけて(三ヶ月間は、「早稲田文学」のために――)早く出るものからぼつ/\と読みはじめ、さて、いよ/\書かうといふ段になると、十日も前に読んだものゝ記憶は大ぶんあやしくなり、また繰ひろげて、あれこれと戸惑ひ、結局時間に追はれて半分も読み損つてしまふ有様は、まるでアダムスン漫画のやうであつた。記憶があやしくなるといふても、決して不熱心な顔つきで失敬な読み方をなしてゐるわけではないので、それこそアダムスンのやうに徹底的に生真面目過ぎるわけなのだが、それがその難物で、ツケル薬が無い態の融通を欠いたあまたの悲しみに相違ないんだけれど、不思議なことには何んな稚拙な作品であつても、文芸的要素の勝つたものは、忘れようとしても忘れられるものではなかつた。通俗的とか大衆的とかといふものは、もともと本来なる文芸の起原と要求からは全く出発点を異にしたもので、それらの社会的なる花々しさに混同されて、どつちつかずの通俗味に病ひされたかの如き、そのやうなものがつい記憶が怪しくなるといふまでのことで、それにしたつて書く場合でゞもなければそれはそれで別段のこともないわけで、僕にしたつて、では誰の何の作が左様であつたかと思つても、それはもう大方忘れてゐるのだ。ともあれ、純文学は純文学であつて、ポーの口真似をするわけではないが、よしやそれらが唐丸駕籠におしこめられて、裁きの庭に伴れ込まれようとも、既にして多くの純文学徒は絶対なる、而して単なる生命の窮極に於いて払ふべき塵も持たざる本来の無一物から、夫々の、EL Dorado……への身構へであつて、おそらく誰にしろ余技的気分でなど、望んでもたづさはり得よう筈もなく、もともと左様なことが望み得ない絶対境からの出発なのだ。

牧野信一の他の作品