TRENDIA CLASSIC

書斎を棄てゝ

牧野信一

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もうわたしは、余程久しい以前から定つた自分の部屋といふものを忘れて、まるで吟遊詩人のやうな日をおくつてゐることだ。ところがわたしは、かねがね憧れの夢のなかでは寝ても醒めても、そこはかとない放浪のおもひが逞しいにもかゝはらず、身をもつてそれからそれへ酔歩を移してゆくといふことには何うやら未だ雅量にも堪へられず、所詮は書斎裡のみの夢想家に過ぎないといふ感が今更ながら深いのである。そこで、今度は何処に何んな部屋を定めようかと、わたしはあちこちの宿屋の窓で月を仰ぎながらも、今また半島の先の小さな島の漁家の離室で波の音を耳にしながらも、これからの行手の旅を考へるよりも、一日もはやく東京へ戻つて何処かの一隅にきまつた住ひを定めて、もう此処は当分うごきたくないといふやうな、つまり生活上の平和を希ふ想ひばかりが強いのである。たまに東京へ出かけて友達を訪れても決つた机をもち、本棚にとりまかれ、明るいランプが燭り、もの慣れた召使ひが茶果を運んで来るやうな沁々とした落着き振りが何よりも羨ましかつた。わたしもこれまで幾度となく家を営み、机を構へたものゝ何か若気の至りとでもいふかのやうな夢と不安に追はれて転々幾度――鳥跡の霞を追ふが如くに遥なる想ひを酣くさうといふやうな、怕れから怕れへと踏み迷うたわけではあるが、そして、そのやうな想ひはますます胸のうちには猛々しくなるばかりであるが、所詮在りのまゝなるこの身はやはり動かぬ部屋のうちに落着けて、心象上の放浪に任すより他は長風万里の彼方に鳴る逸興の夢も怪しまれると弱つて来るのであつた。

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