鞭撻
本文約2,100字 ・ 読了時間 約5分
あらすじ(AIが作成しました)
仙二郎と連れ立って競馬へ行くことを頑なに拒んでいた信太郎は、周囲に促されて渋々同行する。高圧的な態度を見せる仙二郎の強引さに翻弄され、自分の中に潜む歪んだ心情を自覚した信太郎は、密かに自己嫌悪に陥る。競馬場の桟敷で気分を悪くした信太郎は、仙二郎の父親から薬を差し出される。帰路、仙二郎の提案で駆けっこをすることになった信太郎は、自らの臀を鞭打つように叩きながら駆けることで、胸の内にくすぶる暗い感情を払拭しようと試みる。
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私は台所の隅へ駈けこむと、ながしもとで飯の仕度を手伝つてゐる母の袂にとり縋つて――仙二郎と一処に行くのは嫌だ、と云つた。が大声で喚くわけにもゆかず、たゞ無暗に鼻をならして駄々をこねた。
「どういふわけで、そんなに嫌なの……変だね。」母にさう追求されても私は決してその理由は審かにしなかつた。
どうあつても母は私に同意の色を示さないので私は不平の余り口惜し涙を滾すと、プツと頬ツぺたをふくらませて玄関へ来て了つた。さうして障子にとりついて、舌で障子の紙を舐めてゐた。
「お父ツちやん早く行くベエツたらよう、俺アもう飯なんぞ喰ひたかアねエだよう、こんなにぐづ/\してゐたら競馬はおしめエになつちまふづらアな。」
次の茶の間で祖母と話してゐる父親にかぶり付いて切りに仙二郎は強情をはつてゐた。仙二郎の声はキイ/\と高い調子で、カツと他の声を圧へつけて了ふ騒音だつた。
何といふ憎い声だらう――私はさう思つて思はず顔を顰めた。
「今朝ツからどうもこれに酷い目に遇ひつゞけで……加けに今日は馬車がおそろしく混んで、その中で始めから終ひまでこの通りで、もうさん/″\でござんした。」と云ひながら父親は「仙二郎、おとなしくしねエか。うちぢやねエんだぞ。」と叱つたが少しも父親の威厳は徹らず却つて仙二郎はワツと大声を挙げて父親の頭をポカ/\と殴つた。
「仙二郎は赤ン坊の時分から阿父ツさん子だつたから無理もないさ、この位のうちは誰も皆なおなじでね。」と祖母が云つた。私は強く自尊心を傷けられて独りでムツとした。
そこ/\に飯を終ると仙二郎は玄関へ飛び降りてハダシ足袋をはいた。
「サア! 信ちやん行くベエ、お前エは服を着て行かねエのか?」
仙二郎は柿色の水兵服を着てゐた。ズボンが長い為か、それとも身軽く装ふ為か、キユッとたくしあげて上着をその中におし入れた上から太い縮緬のさんじやくを締めてゐた。後から見ると臀の格好がはつきり解つた。
「僕は未だ飯を食べないから行かないよ。」と私は答へた。私は普段大概自分のことを「俺、俺」とよんでゐるにも係はらず「僕」と云つた。