妄想患者
本文約29,300字 ・ 読了時間 約59分
あらすじ(AIが作成しました)
大学の講義中、教授の言葉が頭に入らず空想に耽る学生の「私」は、耐えがたい焦燥を抱え教室を飛び出す。その後、下宿で照子という女性と再会し、互いに毒舌を吐きながら街へ出る。不安定な精神状態の中で「私」は自身の足の不自由さを大袈裟に演じたり、支離滅裂な妄想に苦しんだりする。春の月の夜、狂気と現実の境界が曖昧なまま、現実感覚を失った「私」とそれに翻弄される照子の姿を描く。
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一
ふつと、軽い夢が消えると、窓先を白い花が散つてゐた。何かにギクリと悸された鼓動の余韻が、同じやうに静かに、心から散つて行くのを、私は感じた。
「桜の花だつたか。」、私はさう思つた。
ガジガジと、インク壺の中へペン先を突き込む音がする、慌しく「ノート」の頁をめくる音がする。
「……即ち、ヘラクライトスは常住の実体を根底より否定し、世界の真相は生成を以てなさるべきものとなしたる為に、クセノフアネースの思想を継いだエレア学派との激しい論争を醸すに至つたのであるが、飽くまでも万物流転の説に立脚して……」
重い抑揚のあるH教授の声量が、快く私の鼓膜を打つた。同時に私の注意が教授の言葉に注がれようとした時、突然に、今迄蛙のやうにペつたりとテーブルにへばりついてゐた無数の頭が、ニヨキニヨキと浮動し始めた。教室全体が大きな吐息を一つ衝いて、さうして喧ましい咳払ひや、テーブルの下で蠢く下駄や靴の音が雑然として鳴り初めたので、未だH教授は口を動かせてゐるらしく見へたが、末席に腰掛けてゐる私の耳には、もうその声は伝はらなかつた。
講義が、一区切り終つたところだつたのである。H教授は、これから、この時間の題目であるところのヘラクライトスの「ロゴス」に就いての講義に取り掛る前の一段落を済したところだつた。
ハンカチーフで、顔を拭いてゐる者もあつた。聴き洩したところを傍の者に訊ねて、大急ぎで書き加へてゐる者もあつた。書きかけた「ノート」を黙読して、訂正を施したり、吸取紙でおさへてゐる者もあつた。
「流転のこう常の、こうといふ字はどう書くんだ。」
私の前に居る男が、その隣りの者にそんなことを囁いてゐた。問はれた方の男は、持つてゐたペンを置くと懐中から鉛筆を取り出して「ノート」の上の方に「恒常」と書いた。
「うん、さうかさうか。」
「こんな字を知らんのか、馬鹿な野郎ぢやな。」
さう云ひながら鉛筆を倒にして、ゴシゴシとその字を消してゐた。
私の「ノート」は、拡げてはあつたが一行も汚れてゐなかつた。H教授の時間は、出来るだけ熱心に傍聴する筈だつたのだが――と、私は思つた。