TRENDIA CLASSIC

小島の春

光田健輔

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女医が癩救療に一地歩を築きたるは日本医学史に特筆すべき事実である。先づ服部けさ子女史の草津聖バルナバ医院における、余生において西原蕾、五十嵐正の二女史のごとき、大島に高橋竹代女史あり、我が愛生園にはさきに大西富美子女史あり、本篇の著者小川正子女史あり。皆一身を此事業になげうって悔なきの決心を有し、両親親戚の勧告に耳をもかさず、世人の批評に頓着なきの男まさりの徒である。彼女等の患者に接するや、診療の親切なるに加うるに女性の綿密を以てする。患者等は女史等を見るに慈母の愛と姉妹の親しみを感ずる。斯くして十年一日の如く容色の移るを顧みるに暇あらず、けだし癩に対する同情を禁ずる能わざるに出でしものにて、誠に救癩戦線に欠くべからざる存在と云うべきである。

小川医官は昭和四年東京女子医専を卒業するや 直ちに全生病院に就職を志願されたそうである。私は女史を記憶しないけれども どの志願者にも云うごとく、親兄弟姉妹に相談して再考せられる事を勧告し、若し是非就職したいなら、二、三年大なる病院で内科でも外科でも実地を学び、市井に開業しても医として間に合う腕前を養成してきなさいと断ったそうである。それかあらぬか女史は大久保病院で細菌学及内科を、養育会で小児科を研究し、昭和七年再び手紙で就職を交渉せられたが医官満員で返事をしなかった。所が西原、五十嵐の両先輩から長島に行って直接談判をしなければ駄目であると教えられ、行李をまとめて長島にこられた。其時船越の桟橋から黒の袴をはいて沈み勝ちに上陸して女性は[#「上陸して女性は」はママ]、すっかり忘れておったが女史であった。無論患者は定員超過で困っていた時であったから医局で歓迎した。女史は熱心に内科の診療に従事して、診断正確治療綿密を以て同僚及患者から信頼せられた。