第一篇
一
七月の初め、方図もなく暑い時分の夕方近く、一人の青年が、借家人からまた借りしているS横町の小部屋から通りへ出て、なんとなく思い切り悪そうにのろのろと、K橋の方へ足を向けた。
青年はうまく階段でおかみと出くわさないで済んだ。彼の小部屋は、高い五階建の屋根裏にあって、住まいというよりむしろ戸棚に近かった。女中と賄いつきで彼にこの部屋を貸していた下宿のおかみは、一階下の別のアパートに住んでいたので、通りへ出ようと思うと、たいていいつも階段に向かっていっぱいあけっ放しになっているおかみの台所わきを、いやでも通らなければならなかった。そしてそのつど、青年はそばを通り過ぎながら、一種病的な臆病な気持を感じた。彼は自分でもその気持を恥じて、顔をしかめるのであった。下宿の借金がかさんでいたので、おかみと顔を合わすのがこわかったのである。
もっとも、彼はそれほど臆病で、いじけ切っていたわけでなく、むしろその反対なくらいだった。が、いつのころからか、ヒポコンデリイに類したいら立たしい、張りつめた気分になっていた。すっかり自分というものの中に閉じこもり、すべての人から遠ざかっていたので、下宿のおかみのみならず、いっさい人に会うのを恐れていたのである。彼は貧乏におしひしがれていた。けれども、この逼迫した状態すらも、このごろ彼はあまり苦にしなくなった。その日その日の当面の仕事も全然放擲してしまい、そんな事にかかずらう気にもならなかったのである。彼は正直なところ、どこのどのようなおかみがいかなる事を企てようと、けっして恐れなどしなかった。けれど、階段の上に立ち止まらされて、なんの役にも立たない平凡なごみごみした話や、うるさい払いの督促や、おどかしや、泣き言などを聞かされた上、自分の方でもごまかしたり、あやまったり、嘘をついたりするよりは――猫のように階段をすべりおりて、誰にも見られないように、ちょろりと姿をくらます方がまだしもなのであった。
とはいえ、今度は通りへ出てしまうと、借りのある女に会うのをかくまで恐れているということが、われながらぎょっとするほど彼を驚かした。