TRENDIA CLASSIC

知られざる漱石

小宮豐隆

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木曜會

漱石先生の面會日は毎週木曜日だときまつてゐた。木曜の晩には、きまつて大勢の弟子が集まつた。我我はこれを木曜會と名づけて、その常連をもつて任じてゐた。その木曜會の歴史のやうなものを、ここに書いて見ようと思ふ。

鈴木三重吉によると、先生に面會日をきめさせたのは、三重吉だつたのださうである。先生が訪問客が多くて困ると言つてゐたので、それなら面會日をおきめなさい、就いては土曜・日曜は自分の爲にとつて置いた方がいい、ウィーク・デーで先生の割にひまな日はいつだと訊いたら、木曜日だといふことだつたので、面會日は木曜日の午後三時からといふことにきめたのだといふ。さう言へば明治三十九年(一九〇六年)十月七日(日)附のハガキで、先生は方方に今後面會日を木曜の午後三時からといふことにきめた旨の、通知を出してゐる。この通知を受けた者は、高濱虚子・寺田寅彦・野間眞綱・野村傳四などである。虚子宛のハガキには、「小生來客に食傷して木曜の午後三時からを面會日と定め候。妙な連中が落ち合ふ事と存候。ちと景氣を見に御出被下度候」とある。

かうして先生の所の木曜會は、明治三十九年十月十一日をもつて始められた。その翌日、即ち十月十二日の夜、先生は高濱虚子に宛てて「拜啓昨日は失敬……今度の木曜にも入らつしやいな。四方太も來るかも知れない。小生元來のん氣屋にて大勢寄つて勝手な熱を吹いてるのを聞くのが大好物です。/……今日も三人來ました。然し玄關の張札を見て草々歸ります。甚だ結構です」と書いてゐる。「張札」とあるのは、赤唐紙の詩箋に、面會日は木曜の午後三時以後といふ意味のことが書かれて、玄關の格子の右上に貼りつけられてゐたからである。