永井荷風といふ男
本文約12,400字 ・ 読了時間 約25分
あらすじ(AIが作成しました)
永井荷風の青年時代から交流を重ねた生田葵山が、その人となりや文壇での足跡を綴る。裕福な家庭に育ち、文學を志して父と対立しつつも創作に励んだ若き日の姿や、海外渡航を経て清新な情操を文壇へ持ち込み、後に慶應義塾大学教授となるまでの変遷を描く。さらに、毛筆での執筆にこだわる作家としての細心な一面や、独自の女性観を貫く私生活のあり方、そして長年の友人としての視点から見たその人間性について詳細に論じる。
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一
私が永井荷風君を知つたのは卅七八年も以前のこと、私が廿二歳、永井君は十九歳の美青年であつた。永井君の家は麹町の一番町で以前は文部省の書記官だつた[#「書記官だつた」は底本では「書記官だった」]父君は當時、郵船會社の横濱支店長をして居て宏壯なものだつた。永井君は中二階のやうになつた離れの八疊を書齋に當てゝ、座る机もあつたが、卓机もあつて籐椅子が二脚、縁側の欄干に沿うて置かれてあつた。その籐椅子を私はどんなに懷かしがつたものか。訪問れて往くと先づ籐椅子に腰を降して、對向つた永井と語るのは、世間へ出ようとお互に焦慮つて居る文學青年の文學談であつた。
その頃荷風君は能く尺八を吹いた。時折それを聞かして貰つた。荷風君の幼年時からの友人である井上唖々君が高等學校の帽子を冠つて同じやうに絶えず訪問れて來た。それから早死した清國公使館の參讃官の息子の羅蘇山人も時々やつて來た。私等は話に倦むと連立つて招魂社の境内を散歩した。私がトオスト麺麭の味を知つたのは荷風君のその中二階で、私が行く頃やつと眼覺めた荷風君へ、女中が運んで來る朝飯のトオストを、私が横合から手を出して無作法にムシヤ/\やるのも常例であつた。
談文學になると仲々雄辯になる永井君であつたが、現在の永井君のやうに私生活に就ては何にも私達に洩らさなかつた。井上唖々君が代辯していろ/\と私達に話した。附屬の中學に往つて居たが、體操を嫌ひその時間を拔けるので、教師に怒られ、同級生の腕節の強いのから酷められたりして、その爲に上の學校へ上るのを放棄したと云ふやうなことであつた。成程體操嫌ひらしい永井君は腺病質で、色の青白い、長身の弱々しい體格であつた。唖々君が猶も洩らしたのは此の上の學校へ上らぬのと、文學を志して居るのが、父君の氣に入らず、母君の心配の種になつて居ると云つて居た。