TRENDIA CLASSIC

天狗

大坪砂男

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黄昏の町はずれで行き逢う女は喬子に違いない。喬子でなくてどうしてあんな素知らぬ顔をして通り過ることができるものか。貌といって、いつも巾で包んで正面きっているのだから分る筈はあるまいと――莫迦なことを、喬子は怖いのだ。そのくせ、人の様子を探ろうなどと、ひょっとすると、暗示にかけながら正体を見破ろうと計っているのかも知れない。きっとそうだ。憐れむべし、その手にのると思っているのか。

近頃の流行に胡魔化してスカーフを頭から被って、時刻はいつも風呂帰りの日暮をえらんで西から来るのも魂胆あってのことだ。若く化けた時は赤いスカーフを、或いは黄色かったり緑だったり、年増に扮すると風呂敷を被っていたりする。それも風の日と限らず、夕焼の名残がそよりともしない晩だって同じことなのだから立派な証拠と言えるだろう。そうだ、黄昏の女――巾を被ってわざと見向きもしないで、足早に通る女はどれもこれも喬子の変装に相違ない。背が高いのも低いのも。肥ったのも痩せたのも!

可笑しくって仕様がない。誰が振返って見送りなぞするものか。雨の日に、確証を握ってしまったのだ。たしか霧雨が降っていて、傘の先からは雫がたれていたのに、喬子は平気で濡れながら通り過ぎた。紫のスカーフを被っていたらしい。これは慥かとは言えない。女の足元にだけ注意していたのだから。無論のこと足はあった。そのうえ赤緒の下駄の歯跡が泥の上に次次と押されて行くのを見届けてしまったのだ。幽霊ではなかった。

幽霊には足が無い、と、かかる邪説は一顧の値打もありはしない。だが、幽霊が地上に足跡をつけて行くこと、これは絶対にあり得ない。それならばマテリアリゼーション(物質化)しなければならないし、マテリアリゼーションなぞと言う現象は精神の確かな者の全く信じないところだ。ロッジだのドイルだの、理性の遊戯にふけった連中までが、たった一つのトリック――幽霊の残して行ったパラフィンの手袋、こんな見え透いた手品で霊の物質化を言い出したりして、とんでもないこと、自分の頭脳を信じる誰にもこんな噴飯はないではないか。

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