TRENDIA CLASSIC

「人間宣言」のうちそと

前田多門

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いったい私は日記をつけないし、記憶力の方はというと自分でもあきれるほど悪いのだが、ただ昭和二十年の、つまり終戦の年の十二月二十三日という日付は、私の頭に非常にはっきりと刻みつけられて、いまもって忘れることが出来ない。

十二月二十三日はちょうど日曜にあたっていた。それは、本題からはちょっとはなれた事柄にあたるわけだが、かねて私の恩師の新渡戸稲造先生の銅像が多磨墓地にあったのが、戦争中金属回収で撤去せられていた。これが、戦争が済んだため、幸いまだ鋳潰されていなかったため返却され、それを再び先生の墓の傍に従前通りに復元が出来たので、われわれ弟子どもや縁故者関係者などが銅像を中心に集まって、焼き芋をかじりながら追憶の会を開こうという催しが企てられていた。それが二十三日であって、私なぞも当時多忙な仕事のなかにも、その日の来るのをたのしみにして待っていたわけであった。

いよいよその日に、朝家を出かけようとしたところが、総理官邸から電話があって、幣原総理大臣が至急私に会いたいから官邸に来きくれないか[#「来きくれないか」はママ]という話。そこで家族だけをさきに会に差し向けて私は早速総理官邸に行ってみると、森閑とした日曜日の官邸内の居室に幣原さんはひとりで坐っておられた。

そこで総理は早速ポケットから西洋の書簡紙、二、三枚ぐらいのものに英語で何かしたためてある書面を私に差し示して、