TRENDIA CLASSIC
崖の下
嘉村礒多
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二月の中旬、圭一郎と千登世とは、それは思ひもそめぬ些細な突發的な出來事から、間借してゐる森川町新坂上の煎餅屋の二階を、どうしても見棄てねばならぬ羽目に陷つた。が、裏の物干臺の上に枝を張つてゐる隣家の庭の木蓮の堅い蕾は稍色づきかけても、彼等の落着く家とては容易に見つかりさうもなかつた。
圭一郎が遠い西の端のY縣の田舍に妻と未だほんにいたいけな子供を殘して千登世と駈落ちして來てから滿一年半の歳月を、樣々な懊惱を累ね、無愧な卑屈な侮らるべき下劣な情念を押包みつゝ、この暗い六疊を臥所として執念深く生活して來たのである。彼はどんなにか自分の假初の部屋を愛し馴染んだことだらう。罅の入つた斑點に汚れた黄色い壁に向つて、これからの生涯を過去の所爲と罪報とに項低れ乍ら、足に胼胝の出來るまで坐り通したら奈何だと魔の聲にでも決斷の臍を囁かれるやうな思ひを、圭一郎は日毎に繰返し押詰めて考へさせられた。