梅雨紀行
本文約10,400字 ・ 読了時間 約21分
あらすじ(AIが作成しました)
体調を崩し静養していた筆者が、気分転換を求めて浜名湖めぐりから三河路への旅に出る。汽船の切符売り場での勘定を巡る騒動を皮切りに、道中の館山寺や気賀町での出来事、かつての山寺での記憶を辿る。仏法僧の声を求めて鳳来寺山を訪れ、偶然出会った青年と共に湯谷温泉へ足を運ぶなど、静寂を求めて旅立ちながらも、酒を重ねて賑やかに過ごす旅路の顛末を綴る。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
發動機船は棧橋を離れやうとし、若い船員は纜を解いてゐた。惶てゝ切符を買つて棧橋へ駈け出すところを私は呼びとめられた。いま休んでゐた待合室内の茶店の婆さんが、膳の端に私の置いて來た銀貨を掌にしながら、勘定が足らぬといふ。足らぬ筈はない、四五十錢ばかり茶代の積りに餘分に置いて來た。
『そんな筈はない、よく數へてごらん。』
振返つて私はいつた。
『足らん/\、なアこれ……』
其處を掃除してゐた爺さんをも呼んで、酒が幾らで肴が幾らでこの錢はこれ/″\で、と勘定を始めた。私はそれを捨てゝおいて船へ乘らうとした。
爺さんと婆さんは追つかけて來た。切符賣場からも男が出て來た。船の窓からも二三の顏が出た。止むなく私は立ち留つた。そして婆さんの掌の上の四五枚の銀貨を數へた。どうも足らぬ筈はない。
『これでいゝぢやアないか、四十錢ばかり多いよ。』
『馬鹿なことを……』
婆さんの聲は愈々尖つた。そして、酒が幾らで、肴が幾らで、と指を折り始めた。私もそれを數へてみた。そして、オヤ/\と思ひながら一二度數へ直して見ると、矢つ張り私の間違ひであつた。茶代拔きにして丁度五十錢ほど足りなかつた。私は帽子を脱いだ。そして五十錢銀貨二枚を婆さんの掌に載せた。載せながら婆さんの眼の心底から險しくなつてゐるのに驚いた。汗がぐつしより私の身體に湧いた。
船は思ひのほかに搖れながら走つた。船内の腰掛には十人ほどの男女が掛けてゐた。
『間違ひといふものはあるもんで……』
私の前に掛けてゐた双肌ぬぎの爺さんは私に言つた。この爺さんは茶店で私が酒を飮んでゐる時から二三度私に聲をかけてゐた。
『イヤ、どうも、……』