樹木とその葉
本文約5,900字 ・ 読了時間 約12分
あらすじ(AIが作成しました)
東京の生活に疲れ、縁もゆかりもない沼津へ移住した歌人は、古びた邸宅での穏やかな隠棲を夢見る。しかし、差配人の利欲に翻弄され、家族の病や度重なる引越しに追い立てられる苦難の日々を過ごす。ようやく転居した松原の傍らで、移ろう季節や周囲の山々を眺めつつ、終わりのない旅の気配を湛えた木槿の花を見つめる。これは、あわただしい日常の中で静寂と安らぎを追い求める一人の歌人の心象風景と沼津での生活を綴る随筆である。
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この沼津に移つて來て、いつの間にか足掛五年の月日がたつてゐる。姉娘の方が始終病氣がちであつたのが移轉する氣になつた直接原因の一つ、一つは自分自身東京の繁雜な生活に耐へられなくなつて、どうかして逃げ出さうとしてゐたのが自然さうなつたのでもあつた。自分は山地を望んだが、子供の病氣には海岸がいゝといふわけで、そしていつそ離れるなら少なくも箱根を越した遠くがいゝといふので、何の縁故もないこの沼津を選んだのであつた。
何の縁故もないとはいふものゝ、自分等の立てゝゐる歌の結社にこの沼津から一人の青年が加入してゐたのをおもひ出して、先づ彼に手紙を出し、とりあへず一軒の借家を見付けて貰ふ樣に頼んだ。程なく返事が來て、心當りの家があるから一度見に來る樣にとの事であつた。今から五年前の八月十日頃であつたと記憶する。早速出かけて來て見ると、分に過ぎた大きな邸であつた。荒れ古びてこそをれ、櫻の木に圍まれて七百坪からの廣さがあつた。もう少し小さい家はないかと訊き合せたが、隨分と探したけれど、町内ならとにかく郊外に當つてゐるこの界隈には今のところ此處だけだといふ。それに家賃も格安だつたし、一先づ此處にきめておかうと、その青年父子に――青年のお父さんといふは年老いた醫師であつた――厚く禮を述べ、一晩ゆつくりして行つたらいゝだらうと勸めらるゝのをも斷つて、その日の汽車で私は東京へ歸つた。そしてその旨妻に報告すると共に、翌日から荷造りにかゝつた。