TRENDIA CLASSIC

比叡山

若山牧水

1 / 9

山上の宿院に着いた時はもう黄昏近かつた。御堂の方へ參詣してからとも思うたが、何しろ私は疲れてゐた。「天台宗講中宿泊所」「一般參詣者宿泊所」といふ風の大きな木の札の懸つてゐるその冠木門を見ると、もう脚が動かなかつた。

門を入るとツイ眼の前に白い花がこんもりと咲き枝垂れてゐた。見るともなく見れば、思ひもかけぬ幾本かの櫻の花である。五月の十八日だといふに、と思ふと、急に山の深いところに來てゐるのを感じた。飛石を傳つて、苔の青い庭を玄關まで行つたが、大きな建物には殆んど人の氣も無く、二三度訪うても返事は聞かれなかつた。途方に暮れてぼんやりと佇んでゐると、何やら鳥の啼くのが聞える。靜かな、寂しいその聲は曾つて何處かで聞いたことのある鳥である。しばらく耳を澄ましてゐるうちに筒鳥といふ鳥であることを思ひ出した。思ひがけぬ友だちにでも出會つた樣に、急に私の胸はときめいて來た。そして四邊を見すと何處もみな鬱蒼たる杉の林で、その夕闇のなかからこの筒拔けた樣な寂しい聲は次から次と相次いで聞えて來てゐるのである。

坂なりに建てられたこの宿院のずつと下の方に煙の上つてゐるのを見た。どうやら人の居る氣勢もする。私は玄關を離れてそちらへ急いだ。あけ放たれた入口の敷居を跨ぐと、中は廣大な土間で、老婆が一人、竈の前で眞赤な火を焚いてゐる。私はいきなり聲をかけてその老婆の側に寄りながら、五六日厄介になりたいがと言ひ込んだ。驚いた老婆はさも胡亂臭さうに私を見詰めてゐたが、此頃こちらでは一泊以上の滯在はお斷りすることになつてゐるからといふ素氣もない挨拶である。

若山牧水の他の作品