抱茗荷の説
本文約17,300字 ・ 読了時間 約35分
あらすじ(AIが作成しました)
両親の顔を知らぬ田所君子は、かつて父が遍路を世話していた山端の小屋で祖母と暮らしていた。父はかつて二人の遍路に殺され、母も亡くなった。記憶の断片を頼りに成長した君子は、ある邸で働くうちに、亡き両親の過去と因縁がその家に繋がっていると知る。君子は協力者とともに、当時の状況と亡き母に瓜二つの遍路の面影を重ね合わせ、因縁の真相を解き明かすべく行動を開始する。複雑な記憶と重なる幻像に導かれ、君子は邸に隠された運命と対峙していく。
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女は名を田所君子といった。君子は両親の顔も、名もしらない。自分の生まれた所さえも知らないのである。君子がものごころのつく頃には祖母と二人で、ある山端の掘っ立て小屋のような陋屋に住んでいた。どこか遠い国から、そこに流れてきたものらしい。
祖母の寝物語によると、君子は摂津の国風平村とか風下村とかで生まれたということであるが、いまは村の名や、国の名さえ君子の記憶にはなくなっている。ただ夢のように記憶しているのは、背戸に大きな柿の木があって、夏なぞ六尺もあろうかと思われる大きな蛇が、屋根から柿の木に伝わっていたことや、蕗の葉ほどもあるひまわりが陽に顔を向けていたことなぞであるが、こんなことは自分の生まれた家を捜すためには役に立つことではなかった。ただ、これだけは確かだと思うたった一つの記憶は、背戸に立って左の方を眺めると、はるか遠くに一際高く槍のように尖った山が見え、その頂きにただ一本の大きな松の木があったことである。美しい夕やけにくっきりと、濃い紫で塗りつぶした山の頂きに、墨で描いたような一本の松の木、それが君子の記憶に妙にはっきりと残っている。
君子は旅をするようになってから、美しい夕陽にであうと、ときどきよその農家の裏口に立って、ためして見るのであるが、自分の記憶にあるような山や松の木を見出したことは一度もない。だから確かだと思っているこの記憶さえ、ほんとうは君子がつくりだした想像であるかもしれない。
君子の祖母は君子が八歳のときに亡くなった。祖母が寝物語に君子に語ったところによると、君子の父は、君子が生まれた翌年の秋に死んだということである。父は善根の深い人で、四国、西国の霊場を経巡る遍路の人達のために構えの一棟を開放し善根の宿に当てていた。