宝塚生い立ちの記
本文約15,600字 ・ 読了時間 約32分
あらすじ(AIが作成しました)
四十年前の宝塚は寂しい寒村であったが、電車事業の乗客誘引策として武庫川沿いに娯楽施設が整備された。著者は、箕面動物園の閉鎖と宝塚への経営集中を背景に、三越唱歌隊にヒントを得た少女歌劇の創設を決意する。大正二年には第一期生が採用され、以降、女役者による男役の美学や、歌舞伎の女形と対をなす独自の舞台芸術の形成、そして素人出身の役者が持つ可能性と特色について綴る。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
四十年前の宝塚風景
私が宝塚音楽学校を創めてから、今年でちょうど四十一年になる。今日でこそ、大衆娯楽の理想郷としてあまねく、その名を知られている宝塚ではあるが、学校をはじめた当時は、見る影もない寂しい一寒村にすぎなかった。
そして宝塚という名称は、以前には温泉の名であって、今日のような地名ではなく、しかもその温泉は、すこぶる原始的な貧弱極まるものであった。その温泉の位置はやはり現在の旧温泉のある附近ではあったが、ずっと川の中へ突き出した武庫川の岸にささやかな湯小屋が設けられていて、その傍らに柳の木が一本植わっていた。そして塩尾寺へ登って行く道の傍らに、観世音を祀った一軒の小屋があって、尼さんが一人いた。湯に入るものはそこへ参詣をしてから、流れの急な湯小屋の方へ下りて行ったものだ。その湧出する鉱泉を引いて、初めて浴場らしい形を見せたのは、明治二十五年のことであり、それ以後保養のために集って来る湯治客は、やや増加したとはいうものの、多数の浴客を誘引する設備に欠けていたので、別にめざましい発展も見られなかった。
その後、阪鶴鉄道の開通とともに、宝塚温泉は急速な発達を遂げて、対岸に宿屋や料亭が軒をならべるに至ったのであるが、明治四十三年三月十日、箕面有馬電気軌道株式会社(現在の京阪神急行電鉄株式会社の前身)の電車開通当時は、武庫川の東岸すなわち現在の宝塚新温泉側はわずかに数軒の農家が点在するのみで、閑静な松林のつづく河原に過ぎなかった。