おせん
本文約73,500字 ・ 読了時間 約147分
あらすじ(AIが作成しました)
谷中の笠森稲荷で水茶屋の看板娘として名高いおせんは、多くの男たちから熱烈な視線を浴びる存在である。紙問屋の若旦那徳太郎もその一人で、浮世絵師の彫工松五郎の手引きにより、夜陰に紛れておせんの住居を覗き見ようと試みる。そんな中、おせんは亡くなった役者の菊之丞との過去の情愛を胸に、静かに彼との対話や別れに向き合う。江戸の町で繰り広げられる噂の花と、おせんを巡る人々の複雑な心情や隠された関係を描く。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
虫
一
「おッとッとッと。そう乗出しちゃいけない。垣根がやわだ。落着いたり、落着いたり」
「ふふふ。あわててるな若旦那、あっしよりお前さんでげしょう」
「叱ッ、静かに。――」
「こいつァまるであべこべだ。どっちが宰領だかわかりゃァしねえ」
が、それでも互の声は、ひそやかに触れ合う草の草ずれよりも低かった。
「まだかの」
「まだでげすよ」
「じれッてえのう、向う臑を蚊が食いやす」
「御辛抱、御辛抱。――」
谷中の感応寺を北へ離れて二丁あまり、茅葺の軒に苔持つささやかな住居ながら垣根に絡んだ夕顔も白く、四五坪ばかりの庭一杯に伸びるがままの秋草が乱れて、尾花に隠れた女郎花の、うつつともなく夢見る風情は、近頃評判の浮世絵師鈴木晴信が錦絵をそのままの美しさ。次第に冴える三日月の光りに、あたりは漸く朽葉色の闇を誘って、草に鳴く虫の音のみが繁かった。
「松つぁん」
「へえ」
「たしかにここに、間違いはあるまいの」
「冗談じゃござんせんぜ、若旦那。こいつを間違えたんじゃ、松五郎めくら犬にも劣りやさァ」
「だってお前、肝腎の弁天様は、かたちどころか、影も見せやしないじゃないか」
「御辛抱、御辛抱、急いちゃァ事を仕損じやす」
「ここへ来てから、もう半時近くも経ってるんだよ。それだのにお前。――」