TRENDIA CLASSIC
おせん
邦枝完二
1 / 88
虫
一
「おッとッとッと。そう乗出しちゃいけない。垣根がやわだ。落着いたり、落着いたり」
「ふふふ。あわててるな若旦那、あっしよりお前さんでげしょう」
「叱ッ、静かに。――」
「こいつァまるであべこべだ。どっちが宰領だかわかりゃァしねえ」
が、それでも互の声は、ひそやかに触れ合う草の草ずれよりも低かった。
「まだかの」
「まだでげすよ」
「じれッてえのう、向う臑を蚊が食いやす」
「御辛抱、御辛抱。――」
谷中の感応寺を北へ離れて二丁あまり、茅葺の軒に苔持つささやかな住居ながら垣根に絡んだ夕顔も白く、四五坪ばかりの庭一杯に伸びるがままの秋草が乱れて、尾花に隠れた女郎花の、うつつともなく夢見る風情は、近頃評判の浮世絵師鈴木晴信が錦絵をそのままの美しさ。次第に冴える三日月の光りに、あたりは漸く朽葉色の闇を誘って、草に鳴く虫の音のみが繁かった。
「松つぁん」
「へえ」
「たしかにここに、間違いはあるまいの」
「冗談じゃござんせんぜ、若旦那。こいつを間違えたんじゃ、松五郎めくら犬にも劣りやさァ」
「だってお前、肝腎の弁天様は、かたちどころか、影も見せやしないじゃないか」
「御辛抱、御辛抱、急いちゃァ事を仕損じやす」
「ここへ来てから、もう半時近くも経ってるんだよ。それだのにお前。――」