ある日の印旛沼
本文約3,500字 ・ 読了時間 約7分
あらすじ(AIが作成しました)
作者と同行者のI君が、夏のある日、印旛沼を訪れる様子を描く。干潮で水位が下がり、泥に足を取られながらも舟へと乗り込んだ二人は、船頭から沼の古い歴史や鰻漁の話を聞く。やがて沼の広大な水面に出ると、空を映し出し、数千年の悠久さを湛えた錆びた沼の静寂と、そこに伝わる不思議な火や巨大な蛇といった怪異の言い伝えに触れ、作者は古沼の畔に生きる人々の生活に思いを馳せる。
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私達は茣蓙を持つたり、煙草盆を持つたり、茶器を携へたりして、午前の日影のをりをり晴れやかに照りわたる間を土手の方へと行つた。水田の中では水鶏の声が頻りにきこえた。
『コ、コ、ココ、コ、コ』
いかにも水に近い感じであつた。沼はまだそれと見えてはゐなかつたけれども、あたりの地形から押し、土手のさまから押して、それの近いのが私にもそれと知れた。私達はまだいくらか朝露の残つてゐる田の畔の草の中を縫ふやうにしたり、また時には田から田へと流れ落ちる小さな水を跨いだりして、漸くその大きな、夏草の一面に繁つた土手へと達した。
『ほ!』
かう私は思はず叫んだ。何故と言ふに、沼が始めて私の前にあらはれたからである。見たいと思つてわざわざやつて来た沼が、滅多に人のやつて来ない沼が、またはいかにも錆沼とか浅芽沼とか隠沼とか言はれさうな沼が、夢の中で見た不思議なシインか何ぞのやうに私の前にあらはれて来たからである。
しかし想像は見事に外れた。私はもつと広い感じを与へる沼を思つて来た。また、土手からすぐ水になつてゐる沼を思つて来た。もつと違つた沼を想像して来た。
『水までは随分遠いんですね?』
かう私は思はず言つた。
『渇水だでな』
かう前に立つた艫を擔いだ船頭が言つた。
私の前に立つたI君は、
『本当だね。えらく減つたね。二三日前には、こんなぢやなかつたがな』
『閘門を明けたでさ、昨日』
『あゝ、それでだ』
沼に連接した大きな河の水の調節を掌るために出来た閘門は、これから十町ほど下つたところにあるといふことであつた。私達は船頭のあとについて行つた。
I君は訊いた。
『船は何処にあるんだえ?』
『西でさ』
『あんなところかえ、それは遠いな』
『なアに、わけやありませんや』