孤独と法身
本文約3,900字 ・ 読了時間 約8分
あらすじ(AIが作成しました)
夏、庭樹の下で『大般涅槃経』などの仏教書を読みながら思索にふける著者が、自らの「傍観生活」観を綴る。孤独を法身と捉え、箇の中に全を見る境地について論じつつ、世間の評価や他者による批評の在り方に反論する。批評とは特定の立場からの批判や悪口ではなく、作品そのものの真実や価値を見出すべきものと説き、傍観的かつ法身的であることの尊さを主張する随筆である。
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東京の夏は色彩が濃くつて好い。山や田舎と違つて、空気にもいろいろ複雑した色や感じがある。行かふ女達の浴衣の派手なのも好ければ、洋傘の思ひ切りぱつとしてゐるのも好い。朝蔭の凉しい中だけ勉強して、日影が庇に迫つて来る頃からは、盤して暮らす。夕方近くなるとカナカナやみんみんが鳴き出す。それをきゝながら、行水をザツと浴びて、庭樹の下などを漫歩する。いかにも夏らしくて好い。
樹の陰の深い処に、籐椅子を持つて行つて据ゑて、会心の書を読むのも亦夏の楽みの一つである。不思議にも此頃は仏教の本が手に上る。華厳は大抵読んだ。今は大般涅槃経に移つた。
それにしても仏教は巧妙な心理の立て方をしたものだと私は思ふ。楞伽経の最後のところにある禁肉の理由は、トルストイの菜食論や其他の菜食説などよりもぐつと先きのところを言つてゐる。
要するに、深い心理だ。心理を説いた立派な学問だ。大般涅槃経あたりに行くと、世尊がいかに唯我独尊であつたかといふことが愈わかつて来る。
をりをり深い瞑想と歓喜に打たれて、持つてゐた本を下に置く。日を帯びた樹影がちらちらと籐椅子の上に動く。樹の間から大きな夏の雲が蓬々として日に染められて動いて行くのが見える。そこにも生命の力は動いてゐるのである。この我があるのである。かう思つてぢつとそれに見入つた。
傍観生活と言ふことは、随分いろいろな批評を受けた。ある人からは贅沢だと言はれた。又ある人からは中ぶらりんだと言はれた。私も亦時にはさういふ風に考へた。しかしさうではなかつた。矢張傍観生活は尊いものであつた。