今月は久し振で月評をする気になつた。成るたけ落ちついた静かな心持でやつて見たいと思ふ。
一番先きに読んだのは、「中央公論」に出てゐる藤村千代の『ある女の生活』であつた。私はこの人のものは余り沢山読んでゐなかつた。唯ひとつ淡墨色の何とかいふものを読んだだけだつた。その時も才能がある人だとも思はなかつたけれども、女としては思ひ切つたことを書く一人だと思つた。何だか腐つた溝のにほひでもかぐやうな気がした。しかしそれはわるい意味ではない。『ある女の生活』も矢張さうしたものの一つといつてよかつた。何処かあらはし方に奇抜な、表現的なところはあるが、それはよいと思ふが、余りに溝をかき廻しすぎはしないか。それもかき廻す価値があるならよいが、何もありもしない溝をかき廻してはゐないか。それに、表面は突込んであるやうに見えてゐるけれども、存外本当のことは少いやうに私には思へた。事実としても本当の事実でなくて、作者がわざとかういふ風にしたといふやうな気がした。それは何故だらう? 作者がこの惨めな事実の上に立つことが出来ないためではないか。芸術としては、無論即いてゐることは必要だが、しかもあまりに惨めさを惨めさとして見ただけで、もつと見詰たり考へたりしなければならないことを少しも見詰たり考へたりしてゐなくはないか。もう一度ひつくりかへして言つて見れば、神経的ではあるが、本質的ではないといふことになりはしないか。
但かういふ気はした。矢張女だ。男に対していつもくやし涙ばかりを流してゐて、そしていつか征服されてしまつてゐる。そこに、尖つた所があるといへば、いへるが、男の作者の書いたやうに、寛大さがない、甘さがない、大きな涙がない。従つて読んでしまつて、何処かコセコセしてゐる。虚栄に富んだ女に食ひつかれたやうな浅薄さを感じた。しかし、女として、女の作者として、正直さと大胆さとを持つてゐるものの少くない今の文壇には、この人のやうなのは特異としなければならないのは勿論である。