社会劇と印象派
本文約7,200字 ・ 読了時間 約15分
あらすじ(AIが作成しました)
社会を個人に対する外的な妥協の殻と捉える著者が、芸術家がいかにして社会や自然と向き合うべきかを論じる。個人が自己を掘り下げ、社会という枠組みを超えて自然へ回帰する過程において、社会劇の抱える限界を指摘する。既存の社会劇が重視する問題提起や因果関係の構築に対し、より自然に肉薄し、個人の生活を印象的に再現し得る新たな劇の可能性を模索する芸術論である。
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社会劇と印象派といふ題を設けたけれど、別に深く研究した訳ではない、唯、此頃さういふことを考へたことがあつたから、此処では自分の貧しい経験といふやうなことを中心として少し述べて見たいと思ふ。
先づ社会劇といふことゝ自己と言ふことゝを言はなければならない。社会と自己との関係などいふことも言はねばならない。社会と自己との関係――これはかなりむづかしい問題であるが、先づ大体に言つて、個人が根本で、社会がその上を蔽つてゐるといふやうな形になつてゐると私は思ふ。個人だけでも好いのである。自己だけでもいゝのである。昔は、それなら絶海の中の孤島にゐて、それでも社会があるかなどゝ言ふことを言つたが、矢張あると思ふ。一人だから、社会にはなつてはゐないが、社会をつくるといふ心持は矢張り一人でもあると思ふ。だから、何うしても根本は自己、個人といふことになる。個人が集つて都合のいゝやうな妥協をして、一人ではさびしいからなど言つて、皆なで寄り集つて都合の好いやうにしたのが社会である。であるから社会には妥協、同情、形式などいふことが非常に多い。社会に安んじて生きて居る大抵の人は、かういふ第二義的の殻を被つて、お互に救け合つて生きてゐるのである。生温るい境遇である。自己の心持などは二のつぎに置いて、人のことを多く考へる。だから、博愛主義、利他主義といつたやうな、さういふ他人の為にするといふことが第一になつてゐる。世の中を見渡すに、多くは皆なさういふやうである。