社会と自己との問題はかなり複雑したものである。時には社会本位になつたり自己本位になつたりする。しかし、社会と自己との交渉が離るべからざるものであるのは、元より言ふを待たないことである。
『だツて、現に君達はこの社会に生きてゐるぢやないか。自分一人で生きてゐるやうなことを言つてゐるけれど、この社会がなかつたら、君は何うする!』かういふことを言ふ人がある。そんなことはわかり切つたことである。問題はそれではない。社会と自己との関係が離るべからざるものであるといふそのことではない。寧ろ社会が重いか、個人が重いかといふ問題である。そして、その軽重の度数の問題である。
社会が重じられぬ時代もある。個人が重じられた時代もある。社会が個人をすつかりその中に包んで了つたやうな時代もあれば、個人が社会を改造して行つたやうな時代もある。その無数の度数が問題であるのである。社会と自己との交渉生活の状態を説く人は、其処まで行つて、解釈をして貰ひたいと思つてゐる。
私がある処で演説した言葉の中に、『昔は社会の中に個人がゐた。今は個人の中に社会がゐるやうになつて来た。それは昔の簡単な英雄主義と言つたやうなものから言つたのではない。心理といふ立場から出て行つたものである。社会で妥協してゐる程度を押しつめて行けば、何うしても自己の心理に入つて行くより他に仕方がなくなる。自己の心理に社会を見出すより外に術がなくなる。今まで社会に縛られてゐた自己の心理に、却つて社会を見出すといふやうになる』
『能なんか、僕には没交渉だ。今まで見なかつたことが恥辱ぢやない。これから見やうとも思はない。芝居もさうだ』
かういふ風な言ひ方をする人と、『文士なんと言ふものは何も知らんもんだ。能など丸で知らなかつたんだね』といふやうな言ひ方をする人と長い間議論をした。それを私は黙つて聞いてゐた。
『外物を征服しなくつては駄目だ。自己が外物に征服されては駄目だ』
かう初の人は言つた。