自他の融合と言ふことに就いて、文壇には猶ほ深く考へなければならないことが多いと思ふ。自己の心理をいかに他に発見し、又他の心理をいかに自己に発見するかといふことは、芸術の標準を上げる上に於て、最も必要なことである。一度自分で体感したものを、もう一度他にひつくりかへして見るといふこと、自己の経験を他の中に発見するといふこと、またこれを大きくひろめて言へば、自然と自己とをいかに一致させるかといふこと、『箇』と『全』とをいかに融合させるかといふこと、この大問題は、文壇ではまだいくらも考へられてゐないやうに私には思はれた。
主観、客観の議論は、随分昔から続いて来たものだ。その即と不即とによつて作家の意見が違ひ、批評家の議論が異り、随分すつたもんだをやつて来たものだ。しかし、この議論はこれからもまだ長く続くであらう。人生のある間、芸術のある間、無限に続いて行くであらう。
私の創作の小さな経験で言つて見ても、努力と精進との、又は懊悩と煩悶との中心は、矢張この主客の融合乃至即不即と言つたやうな箇所に存してゐたことを思はずにはゐられない。一方は主観から、自己から行つた逼真の可能と、一方は客観から、他から行つた逼真の不可能と、それと相対して、客観でなければ何うしても渾然として宙宇に浮び上るやうな作品を得ることの出来ない必至の事実、又は自己を没却して了はなければ他が完全に浮び上つて来ないやうな事実、これを学問とか実際世間とかに持つて行けば、慾を離れなければ、自己を離れなければ、公平な客観化が出来ないといふ事実、さういふものが、いつも、作をするに際して、深い細かいある『あらはれ』を見せて来ることを私は常に感じた。そして主観を押しつめれば客観性を生じ、客観を抽象すれば主観性を生じて来るといふことを私は思つた。私は今でも、矢張その二つのものゝ間に、右したり左したり迷つてゐるものであるが、尠くとも、作家は勿論、批評家はこの深い微妙な交錯に十分な注意を払はなければならない。