TRENDIA CLASSIC

文壇一夕話

田山録弥

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現実といふ意味

現実に接触したところに今の新興文芸は生れたのだと言はれる。現実なるものゝ意味をよく了解することの必要なるは言ふ迄もない。然るにその根柢を為して居る現実が、多くは空疎な抽象的のものになつて了つたり、大ざつぱなものになつて了つたりして、まだ真に実際的の現実を理解し飲込んで筆を執るといふ態度の尠ないのは甚だ心細い、例へば処女が妻となり、母となつて現実に触れて行く事実は世の中に有りあふれた日常の些事である。その平凡な事でも真率な心を以てマジメに考察し研究して見ればそれが動かすべからざる実際の現実である。殊更に特異な感じや、事件の発展に興味を繋いで居る人達は、やはり空な現実に煩ひされて居るからであるまいか。

経験といふ意味

私とて必ずしも現実なるものを知つてゐるとは言はない。けれど経験は多少私をしてこの世間の現実を思はしめた。私はその現実を低い地上のたしかな立場から、自分の心持に照して作品に顕はしたいと思ふ。つまり私一個だけの現実、個人を通じて見た現実のライフである。即ち私自身の現実なりライフなりを芸術と結合はせて行かうといふのが私の主意だ。私の茲にいふ現実は、各個人が実際に接触して得たところの現実といふ意味に他ならない。

子供

私に子供があるとする。『子供は可愛いものでせうね?』と訊かれる。『否』と私は答へる。そんなら『憎いか』と訊かれても、また『否』と繰返す。

或時は憎く、或時は可愛いのが、子供に対する心持である。

島崎君は『芽生』の中に子供は自分の一部分であると書かれた。

子供との関係は本能の関係である。

似非デカダン

自己の生活に濫して酒肉を買ひ、傍に迷惑をかけても恬として恥ぢないやうな、生若い似非デカダン、道楽デカダンには私は何時も怖毛を振ふ。

イブセン

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