浴室
本文約8,800字 ・ 読了時間 約18分
あらすじ(AIが作成しました)
谷川の流れる温泉場に辿り着いたKと連れ添いの女は、周囲の平和な日常とは裏腹に、逃げ場のない運命に追い詰められている。二人は互いの家庭を捨てた代償として、自らの命をもって罪を償おうと心に決めていた。ある日、Kは町の近代的な共同浴場を訪れ、湿式浴室の白い湯気の中に身を浸す。そこへ運命が迫り来る予感を感じながら、二人は二人きりの静かな終焉の時を待ち受ける。
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一
……此処まで来れば、もはや探し出されるおそれはない。あらゆるものから遁れて来た。あらゆる障碍から、あらゆる圧迫から、あらゆる苦痛から。かう思つて、Kはじつとあたりを眺めた。
サツと流れてゐる谷川が一番先きに眼に入つた。それはさう大して好いといふほどではないが、ところどころに岩石があつて、その上で新しい鍔広の麦稈帽を日にかゞやかしつゝ避暑客が鮎を釣つてゐるのがそれと指された。此方から向うの町に行く仮橋の上には、をりをり自転車や車が通つて行つた。
Kはじつと一ところサヽラのやうに砕けて白く流れてゐる谷川の瀬に見入つてゐたが、その内部には常に絶えずかの女をはつきりと強く感じた。かの女を、たうとうその身のものにして了つたかの女を、嵐のやうな中を竟に此処まで引張つて来たかの女を、かの女の心を、かの女の肌を、かの女の眉を、かの女の唇を。
「あゝあゝ」
思はずかう言つてKは重苦しい溜息をついた。もう何うにもならなかつた。かれ等は行くところまで行かなければならなかつた。かれは昨夜も二人の涙が床を浸したことを思ひ起した。その涙を禁めるためにすら二人は互ひに相抱かなければならなかつたことを思ひ起した。
それはひとり手にさうなつて行つたやうなものだつた。かういふ風にしたといふよりも、かういふ風になつて行つたといふやうなものだつた。次第に両方からせばめられて行つた結果は、何うしてもかうなつて行くより他にしやうがなかつた。それはたとへて見れば、せまいせまい道を二人して通つて来て、やつと此処までやつて来たやうなものだツた。そしてその先には何がある? 何が待つてゐる?
「死!」
Kはじつとそれを見詰めた。その言葉を見詰めた。
かれは冷たい氷か、鋭利な刃にでも触れたやうな気がした。