死線を越えて
本文約215,000字 ・ 読了時間 約431分
あらすじ(AIが作成しました)
新見栄一は検事の尋問を受け、社会主義への傾倒や労働組合活動への関与を疑われる。困窮者を救済する活動に従事する栄一は、検事の度重なる追及に対しても冷静さを保ち、自身の信念を語る。その後、栄一は貧民窟での過酷な状況を目の当たりにし、無頼漢に襲われた人々を救うために尽力する。自身の無力さや暴力が渦巻く社会の現実に直面した栄一は、深夜の街で苦悩し、神の導きを求めてひたすらに祈りを捧げる。
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一
検事審問室は静かであつた。
その室は白壁を塗つた、無風流なものであつたが、栄一はそれをあまり気にもしなかつた。彼は一時間以上そこで待たされた。生憎、書物も何にも持たずに来たものだから、その間彼は冥想と祈りに費した。
東向の窓は大きな硝子張のものであるが、日あたりの悪い故か、何となしに陰気であつた。窓の向うに赤煉瓦三階立の検事詰所が見える。
何人かの検事や書記が繁く出入をして居る。そこには、人を罰することを専門にして居る検事が毎日詰めて居るのだと思ふと淋しい感じがする。
呼び出しの小使が一寸覗いて通る。栄一は天井の煤けた斑点や、蜘蛛の巣のかゝつた四隅、窓硝子の屈曲して居る為めに、外側にある樹木が伸縮して見える工合、机の上の墨やインキで染め出された色々な模様を次から次へ見て居た。
凡てが静かである。
時々、もし治安警察法にでも触れて居たなら、どうなるであらうと云ふ不安な念も湧いて来るが、栄一はすぐそれを打消した。
彼の胸中には正義の外何物も恐れるものは無かつた。
『汝、審判者の前に立ちて、何事を云はんと思ひ患ふ勿れ、その時聖霊汝に示すべし』
彼は聖書の中にこんな文句のあることを思ひ出して、別に恐れなかつた。
彼は英国のお伽噺『アリス・イン・ザ・ウオンダー・ランド』に出てくる、トランプ・カルタの女王がお台所にあつたお饅頭を一つ、少女アリスが盗んだと云つて、法廷に引き出し、大審判を開いた話を思ひ出し乍ら、くすくすひとりで苦笑した。
そこへ、検事が出て来た。
栄一は敬意を示して、起立した。
検事は栄一を椅子に坐らせて『波瀾録』と上に書いたノート・ブツクを机の上に置いて栄一と正反対に坐つた。
『君は新見栄一と云ふのか?』
『ハイ』
『何を職業にして居るのか?』
『キリスト教の伝道を致して居ります』
『学校はどこまで行つたのか?』
『中学校を卒業して四五年あちらこちらの学校で勉強して居りました。』
『君には両親があるか?』
『いゝえ、ありません』
『君は年齢は幾つぢや?』
『二十三歳で御座ります』