TRENDIA CLASSIC
朧夜
犬養健
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春に近い夕方だ。官立寄宿学校のひと棟になつてゐる少年寮では、大勢の者が芝生の広い中庭に降りてあちこちに塊つてゐた。当時評判だつたハレー彗星がいよ/\現はれるのを観察しようと云ふのである。五十を越した篤学者で、強度の近眼鏡をかけた、痩せて半白の髯を生やした寮長は、懐中から厚ぼつたい銀側時計を出して時間を見計つてゐた。が、さういふ間も、生徒が不精してスリッパの儘庭に降りて来ようとすると、「こら/\。靴をはいて、靴をはいて」と一々丹念に注意してゐた。実際、黄ろく枯れた芝生には、霜解の土がジクリ/\とにじんでゐた。
理科の講師で、綺麗に髪を分けた飯島といふ理学士は、庭の程よい処に望遠鏡を据ゑつけてゐた。太つて快濶な法学士の野田副寮長と、穏和で口数の少ない――何となく病後らしい文学士の森島和作とは、お附合でやはり庭に降りて来て、小さい生徒達のなかに混つてゐた。
いかにも爽々した、一刻千金といふ言葉がふつと頭に浮ぶやうな夕暮である。遠くの賄部屋では、夕食の用意の皿の音を勢よく起ててゐる。建物の裏からは満開を過ぎた梅の蒸すやうな匂が漂つてゐた。それはしかし、あの四君子に喩へられてゐるやうな清楚なものではなく、何処か梅自身欝々と病んでゐるかのやうな、重たい香りだつた。
――丁度この夕方の五時頃からH彗星が肉眼で見える筈だつた。それは地球との数十年目の邂逅であつた。だから春に向ふ都会一帯の陽気な動揺のほかに、この彗星の噂が盛んに新聞に書きたてられて以来といふものは、何か人心に好奇心と、それから一種の気味悪さをいろ/\の臆測入りで与へてゐた。かういふ評判の彗星を、今この寄宿舎の中庭でも大勢たかつて観察しようと云ふのである。
十分、十五分。――しかし肝心の彗星はなか/\現はれない。