一
「人の心といふものは恐ろしいものですね、親分」
八五郎が顎を撫で乍ら、いきなりそんな事を言ふのです。
「あれ、大層物を考へるんだね。菓子屋の前を通ると、店先の大福餅をつかみ喰ひしたくなつたり、酒屋の前を通る度に、鼻をヒク/\させるのも、人間の心の恐ろしさだといふわけだらう」
「止して下さいよ、親分、あつしのことぢやありませんよ」
平次の鼻の先で、八五郎は無性にでつかい手を振りました。
「さうだらうとも、お前の心なんてものは、ビードロ細工で見透しだよ、腹が減るとお勝手ばかり覗くし、お小遣が無くなると、俺の懷を氣にするし」
「もう澤山、――あつしの言ふのは、淺草阿倍川町の佛米屋と言はれた俵屋孫右衞門が、昨夜隱居所で殺されてゐたと聽いたら、親分だつて變な心持になるだらうといふことですよ」
八五郎は漸く本筋に入りました。
「へエ、あの評判の良い人がねえ、俺は逢つたことも無いが、昔は淺草で鳴らした人だといふぢやないか」
「少し一徹者ではあつたが、義理堅くて深切で、評判の良い人でしたよ。それを虫のやうに殺すなんか、ひどいぢやありませんか、八方から人氣のあつた孫右衞門を、殺すほど怨んでゐた者があると思ふと、あつしは世の中がいやになりましたよ」
「八五郎に出家遁世されると、俺も困るし、差當りあの娘が泣くだらう。人助けのため阿倍川町へ出かけて見るとしようか」
「さうして下さいよ、親分が乘出して、下手人を縛つて下さると、あの娘が喜びますよ」
「誰だえ、お前の言ふあの娘は?」
「俵屋孫右衞門の娘、お柳と言つて十六、花の莟のやうな可愛らしい娘ですよ」
「俺の言ふあの娘は、煮賣屋のお勘子さ」
「冗談いつちやいけません」
「お前には少しお職過ぎるかな」
無駄を言ひ乍ら、手早く仕度をして、二人は五月の陽の照りつける街へ出ました。
道々八五郎は、俵屋のことを、いろ/\説明してくれます。先代の主人孫右衞門は、佛米屋と言はれた、評判の良い人でしたが、十年前に配偶に先立たれ、四、五年前から中風で足腰の自由を失ひ、二年前からは寢たつきりで、家督は養子の矢之助に讓り、何不自由なく養生して居るといふことです。