一
「八、大層ソワ/\してゐるぢやないか」
錢形平次は煙草盆を引寄せて、食後の一服を樂しみ乍ら、柱に凭れたまゝ、入口の障子を開けて、眞つ暗な路地ばかり眺めてゐる、八五郎に聲を掛けました。
「今撞つた鐘は、戌刻(八時)でせう」
八五郎はでつかい指を、不器用に折り乍ら、相變らず外ばかり氣にして居るのです。
「それが何うしたんだ」
「五つまでには、來なきやならないんだが」
「誰が來るんだ、借金取か、叔母さんか」
「そんな氣のきかねえ代物ぢやありませんよ」
「叔母さんまで氣のきかねえ代物にされたのか、それぢや新造か年増か、どうせ宵の口から化けて出るエテ物だらう」
平次はからかひ面でした。物騷な江戸の町を、たとへ親分平次の家で落合ふことにしたにしても、若い女の夜の出歩きは、堅氣の者でないことは、餘りにも明かです。
「ところで、今晩は姐さんの姿が見えないやうですね」
八五郎は、キナ臭い鼻の穴を、ひつそりしたお勝手の方へ向けました。其處には、どんな時でも愼ましやかに仕事をしてゐる、平次の女房お靜の、何時までも若々しい姿が見えなかつたのです。
「お袋のところへ手傳ひにやつたよ」
「へエ? 滅多に無いことですね、あの達者なお母さんが身體でも惡いんですか」
「いや、相變らず元氣で、臍繰の溜まるのばかり樂しみにして居るよ」
洗ひ張と仕立物で、樂々と暮して居るお靜の母親は、平次夫婦に、これつぽつちの迷惑を掛けるのも、いさぎよしとしない肌合の女でした。
「それぢや、父さんの年回でも?」
「いや、親父の命日は秋だよ、――實を言ふと、俺はたつた一と晩で宜いから、獨りで暮して見たくなつたのさ、たまには獨り者の昔がなつかしくなるよ」
「へエ、物好き過ぎますね」
獨り者の八五郎には、一と晩でも戀女房に別れて居たいといふ、平次の氣持はわかりません。
「久し振りに、明日の朝は飯といふものを炊いて見ようと思つて居るよ、一粒々々に芯のある飯を炊くのは、骨が折れるぜ、八」
「呆れたものだ、あつしを泊めて置いて、まさかその芯のある飯を喰はせる氣ぢやないでせうね」
「安心しろよ、お前には俺が燒いた乾物で、一杯呑ましてやるから、まだ酒が少しは殘つて居る筈だ」