TRENDIA CLASSIC

錢形平次捕物控

野村胡堂

1 / 16

「平次、頼みがあるが、訊いてくれるか」

南町奉行配下の吟味與力笹野新三郎は、自分の役宅に呼び付けた、錢形の平次に斯う言ふのでした。

「へエ、――旦那の仰しやることなら、否を申す私では御座いませんが」

平次は縁側に踞まつたまゝ、岡つ引とも見えぬ、秀麗な顏を擧げました。笹野新三郎には、重々世話になつて居る平次、今更頼むも頼まれるも無い間柄だつたのです。

「南の御奉行が、事をわけてのお頼みだ、――お前も聞いたであらう、深川木場の甲州屋萬兵衞が今朝人手に掛つて死んだと言ふ話を――」

「ツイ今しがた、溜に居る八五郎から耳打をされました。あの邊は洲崎の金六が繩張りで――」

「それも承知で頼み度い。――甲州屋萬兵衞は町人乍ら御奉行とは別懇の間柄、一日も早く下手人を擧げ度いと仰しやる――金六は一生懸命だが、何分にも老人で、屆かぬ事もあらう、直ぐ行つてくれ」

「畏まりました」

吟味與力に頼まれては、嫌も應もありません。平次は不本意乍ら、大先輩洲崎の金六と手柄爭ひをする積りで、木場まで行かなければならなかつたのです。

「八、手前が行くと目立つていけねえ、神田へ歸るが宜い」

永代まで行くと、後から影の如く跟いて來る、子分の八五郎に氣が付きました。

「歸れと言へば歸りますがね、親分、あつしが居なきア不自由なことがありますよ」

八五郎の大きな鼻が、淺い春の風を一パイに吸つて悠々自惚心を樂しんで居る樣子です。

「馬鹿、大川の鴎が見て笑つて居るぜ」

「鴎で仕合せだ、――此間は馬に笑はれましたぜ。親分の前だが、馬の笑ふのを見た者は、日本廣しと雖も、たんとはあるめえ」

「呆れた野郎だ、その笑ふ馬が木場に居るから、甲州屋へ行く序に案内しようと言ふ話だらう、落はちやんと解つて居るよ」

「へツ、親分は見通しだ」

八五郎は何んとか口實を設けては、親分の平次に跟いて行く工夫をして居るのです。

木場へ行くと、町内大きな聲で物も言はない有樣で、その不氣味な靜肅の底に、甲州屋の屋根が、白々と晝下りの陽に照されて居りました。

「お、錢形の」

何心なく表の入口から顏を出した洲崎の金六は、平次の顏を見ると、言ひやうも無い悲愴な表情をするのでした。

野村胡堂の他の作品