一
「旦那よ――たしかに旦那よ」
「――」
盲鬼になつた年増藝妓のお勢は、板倉屋伴三郎の袖を掴んで、斯う言ふのでした。
「唯旦那ぢや解らないよ姐さん、お名前を判然申上げな」
幇間の左孝は、はだけた胸に扇の風を容れ乍ら、助け舟を出します。
「旦那と言つたら旦那だよ、この土地で唯旦那と言や、板倉屋の旦那に決つてるぢやないか。幇間は左孝で藝妓はお勢さ、ホ、ホ、ホ――いゝ匂ひの掛け香で、旦那ばかりは三間先からでも解るよ。お前さんが側へ來てバタバタやつちや、腋臭の匂ひで旦那が紛れるぢやないか、間拔けだねエ――」
「何て憎い口だ」
左孝は振り上げて大見得を切つた扇で、自分の額をピシヤリと叩きました。此時大姐御のお勢が、片手に犇と伴三郎の袖を掴み乍ら、大急ぎで眼隱しの手拭をかなぐり捨てたのです。
伴三郎の思ひ者で、土地の賣れつ妓お勢に對しては、左孝の老巧さでも、二目も三目も置かなければなりません。
「それ御覽、旦那ぢやないか」
お勢は少しクラクラする眼をこすりました。二十二三でせうが、存分にお侠で此上もなく色つぽくて、素顏に近いほどの薄化粧が、やけな眼隱しに崩れたのも、言ふに言はれぬ魅力です。
「盲鬼は手で搜つて當てるのが本當ぢやないか。匂ひを嗅いで當てるなんて、犬ぢやあるまいし――私はそんな事で鬼になるのは嫌だよ」
伴三郎はツイと身をかはして、意地の惡い微笑を浮かべて居ります。
これは三十そこ/\、金があつて、年が若くて、男がよくて、藏前切つての名物男でした。本人は大通中の大通のやうな心持で居るのですが、金持の獨りつ子らしく育つて居る上に、人の意見の口を塞ぐ程度に才智が廻るので、番頭達も、親類方も、その僭上振りを苦々しく思ひ乍ら、默つて眺めて居るといつた、不安定な空氣の中に居る伴三郎だつたのです。
「あら、旦那、そんな事つてありませんワ」
お勢は少し面喰ひました。
「でも、俺は匂を嗅ぎ出されて鬼になるなんか眞平だよ」
「それぢや、もう一度鬼定をしようか、その方が早いぞ」